寺本幸司
寺本 幸司 | |
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出生名 | 寺本 幸司 |
別名 | 寺沢 圭 |
生誕 | 1938年8月6日(85歳) |
出身地 | 日本 東京都 |
学歴 | 日本大学藝術学部文芸学科中退 |
職業 | 音楽プロデューサー、著作家、画家 |
寺本 幸司(てらもと ゆきじ、1938年8月6日 - )は、浅川マキ、桑名正博、りりィ、イルカ、南正人、下田逸郎、てつ100%、遠藤響子などを手がけた音楽プロデューサーであり、また、アーティストとして、絵画作品や小説等を発表している。妻は元歌手の沢(旧名:国木田)チエ[1]。
来歴
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芝中学校・高等学校、日本大学芸術学部を経て、1961年、(株)芸映に入社。伴淳三郎のマネージメント・セクションから映画製作の仕事に就く。
1966年、日本初のインデペンデント・レーベル「アビオン・レコード」設立に参加。この時、浅川マキと出逢う。
1968年、小澤惇、松村慶子と音楽出版ジュン & ケイ(JUN & KEI MUSIC PUBLISHERS, INC.)を立ち上げ、同年12月、新宿アンダーグラウンド・シアター「蠍座」で、寺山修司構成演出で「浅川マキ深夜3日間ライブ」を成功させる。翌69年、シングル『夜が明けたら』で、浅川マキをメジャーデビューさせ、30万枚のロングセールスを記録したアルバム『浅川マキの世界』(70年)に繋げた。
1972年、音楽工房モス・ファミリィ(株)を設立。同年、りりィがアルバム『たまねぎ』でデビュー。1974年3月にリリースしたシングル『私は泣いています』は、実数87万枚の大ヒットとなった。
また、その年、「りりィ&バイバイ・セッション・バンド(木田高介、土屋昌巳、横井康和、吉田建、斎藤ノブ、西哲也)」を結成。その後、バイバイ・セッション・バンドには、国吉良一、伊藤銀次、上原裕、今剛、坂本龍一、井上鑑らが加わり、名アルバムといわれる『マジェンダ』『オーロイラ』を残した。
同じく72年に、「ファニー・カンパニー」(桑名正博、栄孝志、横井康和、古宇田優、辻宗一郎、西哲也)を「スイートホーム大阪」でデビューさせ、その後、ソロになった桑名正博は、1979年、『セクシャルバイオレットNo.1』で、100万枚のミリオン・ヒットを飛ばした。
1975年、シュリークスからソロになったイルカは、伊勢正三とのコンビでシングル1975年11月、『なごり雪』をシングルとして発売。翌76年に掛けて、オリコンの集計で55万枚近いセールスを記録した。累計売上は80万枚[2]。自身最大のヒットとなった。後の79年、『海岸通』もヒットする。
プロデューサーとして製作したロサンゼルス録音アルバム『植物誌』も、40万枚のヒットアルバムとなった。1984年のイバラギ万博では、モス・エージェンシーの代表プロデューサーとして「茨城パビリオン」の運営に当たった。
また、1986年からは、社団法人 日本音楽制作者連盟(FMP)の理事として、芸団協・実演家隣接権センター(CPRA)に参加し、歌手アーティストの録音録画権の獲得整備、徴収分配等の広報業務にあたった。
1988年、水上土地建物の委嘱を受けて、ウォーターフロント有明に、エンタテインメント商業施設「MZA有明」をオープンさせ、クラブ・シアターには海外から多くの有名ミュージシャンを招聘した。
また、1990年には、不動産企業パックスコーポレーションと組んで、新橋汐留にクラブ・シアター「サイカ(psycha)」をオープン。海外からバンドを呼ぶなどして、時のクラブシーンに名を刻んだ。
著作家としての活動
1992年に、鮎川哲也、島田荘司 編纂 ミステリーの愉しみ⑤ 「奇想の復活」に、「星屑のレクイエム」を発表。2010年から、同人誌「スペッキヲ」(勝目梓主宰)に、小説「抱きとめたい」「木の花さくや姫」などを発表。また2015年から、リトルマガジン「街から」に、「音楽の時間が刻むもの」というエッセイを連載している。
画家としての活動
2012年5月、2週間に渡って、下北沢「ONE LOVE(ぐ)」で、合田佐和子との共作を含め「てらもとゆきじ絵画展」を開催した。
著書
- 音楽プロデューサーとは何か 浅川マキ、桑名正博、りりィ、南正人に弔鐘は鳴る (2021年4月、毎日新聞出版)ISBN 9784620326825