寛容

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寛容(かんよう、: toleration)とは自分と異なる意見・宗教を持っていたり、異なる民族の人々に対して一定の理解を示し、許容する態度である。

「寛容」の語源と意味 

日本語の「寛容」は、明治になって翻訳された語である。英語"Tolerance"の語源を調べてみると、endurance, fortitude とあり、もともとは、「耐える」、「我慢する」という意味をもつ言葉である。次第に、「相手を受け入れる」の意味をも含むようになったが、無条件に相手を受け入れるというより、自分の機軸にあったものだけを許す、という意味あいが強い。[1]

現在使われている「寛容」(Tolerance) は、近世ヨーロッパ社会において産み出された概念である。というのも、「十六世紀の宗教改革の結果として、カトリック普遍主義が崩壊すると共に、多くの同時代人が宗教的な寛容を重要な課題または争点として認識するようになった」[2]からである。更にいえば、「まず宗派間の対立感情が頂点に達する宗教戦争の時代には、寛容は信仰の弱さの表現として否定的に考えられたが、やがて宗教戦争から平和に移行する段階になると、寛容はいわば必要悪として暫時的にではあるが肯定され、信仰の問題というよりも国家理性を優先する立場からカトリックとプロテスタントの平和的共存が実現される」[2]という状況になったからである。  これは、積極的に相手を尊重するのではなく、「異端信仰という罪悪または誤謬を排除することのできない場合に、やむをえずそれを容認する行為であり、社会の安寧のため、また慈悲の精神から、多少とも見下した態度で、蒙昧な隣人を許容する行為」[3]をするためであった。  これは、宗教戦争を経験したヨーロッパにおける特殊事情が、「寛容」を強要されたわけであり、仕方無しの「許容」である。

哲学における寛容論

トマス・モアの寛容論

トマス・モアは著書『ユートピア』の中で架空の国における宗教的な寛容を描き出した。彼が想定したユートピアという国では、多くの宗教が併存しているけれども、そこの住人は世界の創造者たる唯一神ミスラを信仰しているという点で一致している[4]。彼らはこのような宗教的多様性の中で、他の宗教を侵害しないという掟を守っている[5]。そして、この地の王ユートプスも、宗教の自由と諸宗派の平和的共存を命じている[6]。これは、ユートプス王自身が、かつてのこの地の宗教的な混乱に乗じて征服に成功したからであった[7]。このようなトマス・モアの宗教的寛容は、平和的な説諭による改宗を勧め、異端に対する武力的な抑圧を非難したものである[8]。他方で、トマス・モアは、無神論および唯物論については、彼らを公職から遠ざけるべきこと、また宗教的な儀式は自宅で(すなわち私的に)行うべきことを説いている[9]

ジョン・ロックの寛容論

ジョン・ロックの寛容論の主眼は、聖俗を分離させること、とりわけ為政者が信仰の問題に干渉しないようにさせることであった[10]。彼の後年の作品『寛容についての書簡』A letter concerning toleration. (1685)では、主に3つの原理が掲げられている[11]

第一に、キリスト教会および信徒は、人類愛の見地から、他人を迫害する権利を持たない[12]

いかなる私人も、教会や宗教の違いを理由として、他人の社会的権利の享有をそこなう権利を持ってはおりません。…(中略)…いや、われわれはたんなる正義という狭い限度に満足することなく、慈愛、博愛、寛大がそれに加えられねばなりません。 — ジョン・ロック『寛容についての書簡』[13]

第二に、人の認識範囲は狭く、また誤り易いので、自分の宗教的な意見が正しく、他人のそれが誤っているということについて、確実な知識を持てない[14]

確かに、国王は他の人々よりも権力という点では生まれながらに上位にあります。しかし、自然においては平等です。支配の権利も支配の技術も、それ以外のことがらの確実な知識を伴うものとは限りませんし、ましてや真の宗教の知識を伴うものではさらさらないのです。 — ジョン・ロック『寛容についての書簡』[15]

第三に、暴力という強制によって人々を救済することはできない[16]

さらにまた、これら二つの意見を異にする教会のいずれかが正しいことが明らかであったとしても、だからと言って、その正しいほうが他方の教会を破壊する権利が生じることはないでしょう。なぜなら、教会は世俗のことがらに関してはいかなる支配権をも持つものではなく、人々の心に誤りを納得させ、真理を教えるのに、火や剣は決して適切な道具ではないからです。 — ジョン・ロック『寛容についての書簡』[17]

このようなロックの寛容論の通奏低音は、可謬的な人間という人間像である[18]

ヴォルテールの寛容論

ロックからほぼ半世紀後のフランスの思想家であるヴォルテールも、自身の寛容論を人間の誤り易さによって基礎付けている。

寛容とは何であるか。それは人類の持ち分である。われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられているのだ。われわれの愚行をたがいに許しあおう、これが自然の第一の掟である[19]。…(中略)…われわれがたがいに赦しあるべきことのほうがいっそう明らかである。なぜならば、われわれはみな脆弱で無定見であり、不安定と誤謬に陥りやすいからである[20]。---ヴォルテール『哲学辞典』「寛容」の項目

このようなヴォルテールの寛容論は、新教徒冤罪で処刑されるというカラス事件再審請求運動を経て、「恥知らずを粉砕せよ」というモットーの下で、ある種の不寛容さを含む正義論へと発展していった[21]。そこに現れているのは、「不確実はほとんど人間の宿命である」にもかかわらず「いずれかに立場を決めねばならず、それも場あたりであってはならない」という綱渡り的な実践的思考である[22]

マルクーゼの『抑圧的寛容』

ヘルベルト・マルクーゼもまた、1965年に出版された『純粋寛容批判』に納められた論文『抑圧的寛容』(en:Repressive Tolerance)において権力者への隷属や多数決で規定される民主主義的権力の横暴の容認を『消極的寛容』(passive tolerance)と批判し、社会的弱者を虐げる権威や権力を容認しない『抑圧的寛容』を主張した。しかし論文の最終部分で保守主義者の批判に対して次のように反論した。

しかしながら、既成の半民主主義の代替は、たとえそれがいかに知的であっても独裁やエリートではなく、真の民主主義に向けての戦いである。[23]

この点で彼の多数決批判論はプロレタリアート独裁エリート主義ではなく『法の支配』に近い。

脚注

  1. ^ 保坂俊司「インド仏教思想における寛容思想とその展開」釈悟震 他『インド宗教思想の多元的共存と寛容思想の解明』山喜房仏書林、2010年、pp.240-282.
  2. ^ a b 深沢克己『信仰と他者〜寛容と不寛容のヨーロッパ宗教社会史』東京大学出版会、2006年, i頁
  3. ^ 深沢克己 (2006, p. 19)
  4. ^ 井上公正『ジョン・ロックとその先駆者たちーイギリス寛容論研究序説ー』お茶の水書房、1978年、p.33-34.
  5. ^ 井上公正 (1978, p. 34)
  6. ^ 井上公正 (1978, p. 35)
  7. ^ 井上公正 (1978, pp. 34–35)
  8. ^ 井上公正 (1978, p. 36)
  9. ^ 井上公正 (1978, pp. 38–39)
  10. ^ 井上公正 (1978, p. 246)
  11. ^ 井上公正 (1978, pp. 247–250)
  12. ^ 井上公正 (1978, p. 247)
  13. ^ 大槻春彦責任編集『ロック ヒューム〔第3版〕』世界の名著27、中央公論社、昭和45年、p.361.
  14. ^ 井上公正 (1978, p. 248)
  15. ^ 大槻春彦責任編集『ロック ヒューム〔第3版〕』世界の名著27、中央公論社、昭和45年、p.369.
  16. ^ 井上公正 (1978, p. 250)
  17. ^ 大槻春彦責任編集『ロック ヒューム〔第3版〕』世界の名著27、中央公論社、昭和45年、p.363.
  18. ^ 大槻春彦責任編集『ロック ヒューム〔第3版〕』世界の名著27、中央公論社、昭和45年、p.18-19.
  19. ^ 串田孫一責任編集『ヴォルテール ディドロ ダランベール〔第7版〕』世界の名著29、中央公論社、昭和52年、p.327.
  20. ^ 串田孫一責任編集『ヴォルテール ディドロ ダランベール〔第7版〕』世界の名著29、中央公論社、昭和52年、p.334.
  21. ^ 串田孫一責任編集『ヴォルテール ディドロ ダランベール〔第7版〕』世界の名著29、中央公論社、昭和52年、p.26-27.
  22. ^ 串田孫一責任編集『ヴォルテール ディドロ ダランベール〔第7版〕』世界の名著29、中央公論社、昭和52年、p.27.
  23. ^ ヘルベルト・マルクーゼ、『抑圧的寛容』ロバート・ボールウェルク、ベリントン・モア2世との共著『純粋寛容批判』 せりか書房 1968年に所録

関連項目

外部リンク