宮地嶽古墳

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宮地嶽古墳

宮地嶽古墳(みやじだけこふん)は、宮地嶽大塚ともいい、福岡県福津市宮地嶽神社境内にある古墳時代終末期の円墳である。「津屋崎古墳群」の一つとして国の史跡に指定されている。

概要

本古墳は宮地嶽神社境内にあり、宮司・手光にある他の古墳と同様に7世紀の築造と推定される。墳丘形状は大型の円墳で、直径は34メートル、横穴式石室の長さが約22メートルもある。今日内部を見学できる横穴式石室としては最大のものである。この石室に使用されている石材(玄武岩)は、玄界灘相島から船によって運ばれたと推定されている。現在知られている古墳時代の横穴式石室で日本最大のものは、奈良県橿原市にある巨大古墳見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)のもの(全長約28メートル)であるが、これは宮内庁管理の陵墓参考地に含まれており、非公開とされている。巨石墳として有名な奈良県明日香村石舞台古墳でさえ約20メートルである。

被葬者について

この古墳の入口には、ガラス製の骨壺を収めた青銅製の骨蔵器も追納されており、被葬者は、宗像一族の首長墓であるとされる。『日本書紀』天武天皇二年(673)正月条で帝紀を記している中に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、この古墳に埋葬されているのは徳善であるとの説が有力であるが、宮地嶽古墳は6世紀の築造であり7世紀前半の人物である徳善では時代が合わず、諸説あるが磐井氏の関係者との説、安曇氏の王墓である説もあると宮地嶽神社では説明している。

埋葬施設

長さ約22メートルの横穴式石室で、終末期古墳の特徴の一つである。

副葬品

金銅製馬具類、金銅荘頭椎大刀(かぶつちのたち、長さ3メートルを超える大大刀である)、長方形緑瑠璃板(ガラス板)などの出土品が一括して国宝に指定されている(宮地嶽神社所有、九州国立博物館に寄託)。終末期古墳として最も豪華な副葬品である。

ガラス板について輸入品とする説などがある。つまり、航海術に長けた宗像勢力が、独自に朝鮮半島シナ大陸との交渉をする中で、入手したと推測される。畿内の古墳では類例が知られていない。

文化財

国宝

  • 宮地嶽古墳出土品 附 各種金具等残片 - 指定年月日:1952年(昭和27年)3月29日[1]。九州国立博物館寄託。
    • 金銅鞍金具残欠 1背 前後両橋 覆輪、海磯金具鞖等
    • 金銅壺鐙 1双
    • 金銅鏡板付轡 1箇分
    • 金銅杏葉残欠 2枚分
    • 銅鎖 1連
    • 金銅装頭椎大刀(大形)残欠 1口分 柄頭、鐔、刀身断片、鞘金具等
    • 金銅装頭椎大刀残欠 1口分 柄頭、鎺(金偏に「祖」の旧字体)、刀身断片等
    • 金銅透彫冠残欠 一括
    • 金環 1箇
    • 緑瑠璃丸玉 1連
    • 緑瑠璃丸玉 一括
    • 蓋付銅鋺 1口
    • 銅盤残欠 1枚分
    • 土師器盌 1口
    • 長方形緑瑠璃板残欠 3枚分
    • 緑瑠璃板断片 一括

史跡

  • 津屋崎古墳群 - 古跡群の一部として宮地嶽古墳が指定されている[2]
    福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上の南北7km、東西2kmの範囲に、宗像地域における5世紀前半から7世紀前半にかけて連綿と築かれた首長墓の古墳群が分布し、地理的位置を考え合わせると、海上交通を担い、沖ノ島祭祀に関わりを持つ胸形君一族の墳墓群であるという可能性が高い。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群などからなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。宮地嶽古墳の被葬者は、天武天皇妃尼子娘の父親である「胸形君徳善」とする説が有力である[2]

脚注

  1. ^ 宮地嶽古墳出土品/国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2021年10月2日閲覧。
  2. ^ a b 津屋崎古墳群/国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2021年10月2日閲覧。

関連項目

外部リンク