コンテンツにスキップ

大槻文彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Rei-2 (会話 | 投稿記録) による 2012年5月17日 (木) 10:19個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

大槻文彦
生誕 (1847-10-15) 1847年10月15日
日本の旗 日本 東京
死没 (1928-02-17) 1928年2月17日(80歳没)
日本の旗 日本 東京
国籍 日本の旗 日本
職業 言語学者
テンプレートを表示
大槻文彦の胸像
宮城県仙台第一高等学校
一ノ関駅前の大槻三賢人像(文彦は左側)

大槻 文彦(おおつき ふみひこ、1847年12月22日弘化4年11月15日) - 1928年2月17日)は、日本国語学者。本名は清復、通称は復三郎、号は復軒。江戸出身。

日本初の近代的国語辞典言海』の編纂者として著名。宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任し、教育勅語が発布された際にいち早く文法の誤りを指摘したことでも有名。明六社会員。帝国学士院会員。

経歴

儒学者大槻磐渓の三男で、兄に漢学者の大槻如電祖父蘭学者大槻玄沢である。幕末には、仙台藩密偵として鳥羽・伏見の戦いに参戦してもいる。戊辰戦争後は、徳川側に付き奥羽越列藩同盟を提唱した父の大槻磐渓が戦犯となった際には、兄の如電とともに助命運動に奔走した。

開成所仙台藩校養賢堂英学数学蘭学を修めたのち、大学南校を経て、1872年文部省入省。1875年に、当時の文部省報告課長・西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられ、1886年に『言海』を成立、その後校正を加えつつ、1889年5月15日から1891年4月22日にかけて自費刊行した。その後、増補改訂版である『大言海』の執筆に移るが、完成を見ることなく増補途中の1928年2月17日に自宅で死去した。なお編著『伊達騒動実録』は伊達騒動の基本資料となっている。

『言海』の出版とその意義

『言海』執筆の過程で、日本語の文法を、英語に即して体系づけてしまったことは大きな---しかし日本語の本態を抑圧したという問題を孕む---副産物といえる。『言海』の巻頭に掲げられた「語法指南」は、これを目的に『言海』を求める人もいるほど日本語の文法学の発展に寄与し、後に『広日本文典』として独立して出版された。

19~20世紀にかけて、などの、いわゆる「列強」と呼ばれる各国では、国語の統一運動と、その集大成としての辞書作りが行われた。具体例を挙げるなら、英の『オックスフォード英語辞典』、米の『ウェブスター大辞典』、仏のリトレによる『フランス語辞典』、独のグリム兄弟による『ドイツ語辞典』などがある。『言海』の編纂も、そうした世界史的な流れの一環としてみることができる。

『言海』完成祝賀会

1891年6月23日、文彦の旧仙台藩の先輩・富田鉄之助が、芝公園紅葉館で主催した『言海』完成祝賀会には、時の総理大臣伊藤博文をはじめとし、山田顕義大木喬任榎本武揚谷干城勝海舟土方久元加藤弘之津田真道陸羯南矢野龍渓ら、錚錚たるメンバーが出席した。

なお父・大槻磐渓以来大槻家と親交のあった福澤諭吉も招待されたが、次第書(祝賀会プログラム)で自分の名が、伊藤の下にあるのを見て「私は伊藤の尾につくのはいやだ。学者の立場から政治家と伍をなすのを好まぬ」と、出席を辞退したというエピソードがある[1]

著書

関連項目

参考文献

  • 犬飼守薫『近代国語辞書編纂史の基礎的研究 「大言海」への道』風間書房、1999年3月。ISBN 4-7599-11243 
  • 『ビデオ ことばのうみへ 大槻文彦と「大言海」』紀田順一郎監修、紀伊國屋書店、1996年3月。 
  • 高田宏『言葉の海へ 大槻文彦伝』新潮社、1978年7月。  第5回大佛次郎賞・第10回亀井勝一郎賞受賞。
  • 大島英介 『遂げずばやまじ 日本の近代化に尽くした大槻三賢人』 岩手日報社、2008年10月。ISBN 4-87201-3913

脚注

  1. ^ 高田宏『言葉の海へ』、第1章の冒頭参照

外部リンク