喬石
喬石 | |
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生年月日 | 1924年12月 |
出生地 | 中華民国、上海市 |
没年月日 | 2015年6月14日(満90歳没) |
死没地 | 中国、北京 |
出身校 | 同済大学 |
所属政党 | 中国共産党 |
配偶者 | 郁文 |
第8期全国人民代表大会常務委員会委員長 | |
在任期間 | 1993年3月27日 - 1998年3月16日 |
国家主席 | 江沢民 |
国務院副総理 | |
内閣 |
趙紫陽内閣 李鵬内閣 |
在任期間 | 1986年4月12日 - 1988年4月12日 |
国家主席 | 李先念 |
喬石(きょう せき、チャオ・シー、拼音: 、1924年12月 - 2015年6月14日)は、上海生まれの中華人民共和国の政治家。第13期・第14期中国共産党中央政治局常務委員、第8期全国人民代表大会常務委員会委員長(国会議長に相当)などを務めた。
経歴
祖籍は浙江省定海。本名は蒋志彤。1940年8月、中国共産党に入党。国際問題の専門家で、政党外交を担当する中央対外連絡部長に就任。その後、中央弁公庁主任、中央組織部長など党中央の要職を歴任した。1979年には北京で長期間幽閉されていた元日本共産党幹部(1953年に除名)の伊藤律を釈放した(翌1980年に伊藤は日本に帰国)。
1982年9月の第12回党大会において党中央委員に選出[1]。同月12日の第12期1中全会において党中央書記処候補書記に選出された[2]。
1985年に兪強声事件が発生すると[3]、解任された陳丕顕に替わって党中央政法委員会書記となり、また同年9月24日の第12期5中全会より中央政治局委員・中央書記処書記を兼任[4]。党において政治・法律・情報・司法を担当。
1986年4月12日、第6期全人代第4回会議の決定に基づき国務院副総理に任命[5][6]。1987年11月2日、第13期1中全会において党中央政治局常務委員に昇格[7]。中央規律検査委員会書記[7]・中央政法委員会書記を兼任し、政治局における序列は第3位となった[7]。
1989年6月、第2次天安門事件によって趙紫陽が総書記を解任されると、喬は楊尚昆(国家主席・党中央政治局委員)によって趙の後継に推薦された。しかし、陳雲・李先念ら保守派長老が推薦した江沢民が後継の総書記に就任。喬は同事件によって失脚した胡啓立に代わり中央書記処常務書記を兼任した。同年、中央党校校長に就任。
1993年3月27日、第8期全国人民代表大会第1回会議において常務委員会委員長に選出[8]。田紀雲副委員長と共に、全人代の政党に対する監督機能を高めるべく奔走した。
1997年9月の第15回党大会で中央委員を引退。1998年、全人代常務委員長を退任。
家族
妻は郁文、一男一女あり。
脚注
- ^ 十二届中央委員会正式委員名単(共210人) (中国語)
- ^ 第十二届中央委員会第一次全体会議公報(第一号) (中国語)
- ^ 1985年、当時国家安全局外事局長だった兪強声がアメリカに亡命した事件。父は第一機械工業部長などを務めた兪啓威。文革終結で後ろ盾だった汪東興、于桑が相次いで失脚したためと言われている。この責任を取って陳丕顕は中央政法委員会書記を辞任した。
- ^ 第十二届中央委員会第五次全体会議公報 (中国語)
- ^ 第六届全国人民代表大会第四次会議决定任命国務院副総理、国務委員名単 (中国語)
- ^ 中華人民共和国主席令(六届第40号) (中国語)
- ^ a b c 第十三届中央委員会第一次全体会議公報 (中国語)
- ^ 中華人民共和国全国人民代表大会公告(第一号) (中国語)
- ^ “中国の喬石氏が死去 全人代の元常務委員長”. 朝日新聞. (2015年6月14日) 2015年7月29日閲覧。
- ^ “元全人代委員長の喬石氏が死去 江元主席のライバル”. 日本経済新聞. (2015年6月15日) 2015年7月29日閲覧。
外部リンク
- 中共中央 全国人大常委会 国务院 全国政协讣告 乔石同志逝世 新华网 (中国語)
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