古河力作
生誕 |
1884年6月14日 明治政府・福井県遠敷郡雲浜村 |
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死没 |
1911年1月24日(26歳没) 大日本帝国・市ヶ谷刑務所 |
職業 | 園丁 |
罪名 | 大逆罪 |
刑罰 | 死刑 |
親 | 慎一 |
古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年(明治17年)6月14日 - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代の無政府主義者。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。冤罪として名誉回復の運動がある。
略歴
福井県遠敷郡雲浜村(現・小浜市)出身。古河家はもともと豪商の家で、近親結婚を繰り返したために、力作は140センチ足らずの短躯であったという[1]。弟妹がいる[2]。家は地主であったが、父慎一が事業に失敗して、経済的に貧窮。ぼんぼんとして育てられた力作も働きにでなくてはならなくなった。花作りが好きで、神戸の印東熊児の園芸場で園丁として働く。印東も古河もクリスチャンであった。1903年に東京・滝野川の西洋草花店に移った。
他方、足尾鉱毒事件の直訴騒動の頃より社会問題に関心を持ち、特に社会的不平等に反発するようになった。社会主義者の座談会に通い、首相桂太郎[3]を刺殺しようと官邸に忍び込もうとしたと告白したことから、親しくなって、1909年、幸徳秋水と管野スガの創刊した『自由思想』の印刷名義人となった。
1910年、明科事件、幸徳事件(大逆事件)で逮捕された。警察によれば、秋水・管野・宮下太吉・新村忠雄と共に天皇暗殺を計画していたとされたが、弁護士今村力三郎によると、事件の計画は菅野・新村・宮下の三名で練られ、思想的師匠である秋水は身の危険が及ぶからという理由で除外され、古河については同志とは見なされていなかったため後まで知らされていなかったという。爆弾テロの実行者を決める段になって、抽選で古河は二番目になるが、計画はうやむやのうちに立ち消えになった。しかしその後で宮下が明科事件で逮捕されたことから、古河もこの未遂の件で連座することになった。
幸徳事件では古河本人に犯意は薄く、裁判において予審の判事に諭されて社会主義を一端放棄するが、有罪判決を受けた。結局、秋水らとの死を覚悟して「僕は無政府共産主義者です。しかし、ドグマに囚われてもいない。自由を束縛されるのはいやだ。貧困、生存競争、弱肉強食の社会よりも、自由、平等、博愛、相互扶助の社会を欲す。戦争なく牢獄なく、永遠の平和、四海兄弟の実現を望む」[1]という言葉を残して、刑死した。享年26。
古河と森近運平は、自分の遺体を解剖研究用の献体とするように遺言していたため、堺利彦は予め東京大学法医学教室の片山国嘉教授に引き取りを依頼していたが、直前で圧力がかかって解剖は取りやめとなった。堺は怒ってこのまま死体を東大に放置しようかと思ったというが、思い直して、3日後の27日、下落合の火葬場で二人の遺体を荼毘にふして、遺灰を遺族に渡した。
古河は、「墓を立てる余裕があるなら、弟妹に甘いものでも買って下さい」と言い残したが、郷里の福井県小浜市青井の妙徳寺には戒名だけが彫られた簡素な力作の墓がある。実弟古河三樹松(1900年 - 1995年)は、兄の事件後に家族と郷里から逃げるように上京。月の輪書林古書目録の『古河三樹松散歩』で知られた、剛毅なアナキスト[4]の書店主となった。
脚注
参考資料
- 水上勉『古河力作の生涯』文藝春秋、1978年。ISBN 978-4167118068。