原甚之丞

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はら じんのじょう

原 甚之丞
第8代原甚之丞
生誕 原 治[1]
1907年2月3日
日本の旗 日本
死没 不詳
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
職業 実業家
団体 日本綿業倶楽部
活動拠点 日本の旗 日本
純資産 素封家
肩書き 和泉織物株式会社・社長
前任者 白井治平
配偶者 原マサ[1]
子供 原乙彦(旧姓・矢橋)養子
原由比子(二女)[1]
中井博子(三女)[1]
第7代原甚之丞
親戚 中井家
矢橋家
正木家
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原 甚之丞(はら じんのじょう、1907年2月3日 - 没年不詳)は、日本実業家和泉織物株式会社社長[2]。第8代・原甚之丞。大地主素封家近代数寄者に大寒、無可有。

略歴

1907年実業家第7代・原甚之丞とその妻テル(生家の正木家は、保有する国宝小野道風書蹟・国宝藤原行成書蹟重要文化財等を寄贈し正木美術館を創設した素封家)の長男として生まれ、治と名付けられる[1]1925年5月3日第7代・原甚之丞が逝去[3]、同年家督を相続、甚之丞を襲名する[1]1932年に最盛期に入り1933年イギリスを抜いて綿織物輸出世界一を達成し「近代日本をけん引する主要産業」であった繊維産業[4]が、1937年7月の日中戦争勃発を契機に本格的に戦時経済統制を受けていく中、1939年商工省発表の「繊維対策要綱」に基づいた第一次企業整備(第二次近衛内閣)に沿って、全国の綿紡績76社が任意に集まって形成した14ブロックのうちの第1ブロックを共に形成していた[5]東洋紡績との合併の時(全国の紡績業を14ブロックに統合完了した年でもある1941年)まで、原は先代より引き継いだ和泉織物株式会社[3][注釈 1]の経営に携わる[1][9][2]

浜寺町船尾(現・堺市西区)在住[1]

代々の地

代々所有の山、車道

系譜

注釈

  1. ^ 1912年9月設立、資本金250万円、本社は南掃守村大字尾生2618(現・岸和田市尾生町)。貝塚町澤、南掃守村福田および尾生、山直下村新在家(現・岸和田市岡山町)、和泉町府中(現・和泉市府中町)の計5工場を操業し、綿糸、綿布などの製造をしていた[2]商工省「繊維対策要綱」(1939年10月)を受けた第一次企業整備(第2次近衛内閣)の実施に基づいて、1941年5月の東洋紡績合併[6]。公開の記録上、本記事の原甚之丞は、1934年(昭和9年)頃より、監査役[7]として、さらには専務取締役[8]、そして社長[2]として、経営に携わっている。
  2. ^ 「……矢橋家は俳人松尾芭蕉も泊まった県内屈指の旧家。「日本外史」の著者・頼山陽も来遊したり、吉田茂の側近だった白州次郎の妻で随筆家の白州正子も幾度となく同家の牡丹園を訪れている。
    先祖は嵯峨天皇から分かれた氏族・嵯峨源氏までさかのぼる。大垣赤坂に住み、矢橋の姓を名乗ったのは彦十郎から。矢橋総本家初代当主だ。
    5代目から藤十郎を襲名し、初代藤十郎は木因に師事し木巴と号し俳句をたしなんだ。2代目は、号を李明、4代目は丹陽、5代目(彦十郎を名乗る)は鳥江。6代目で再び藤十郎を名乗り号は十衛といった。
    初代藤十郎の五男・三郎兵衛は分家。号は李仙。二代目、三代目も赤山、赤水と号して漢詩を作り、いずれも遺稿がある。矢橋家は、歴代、俳句や漢詩をたしなんできたのだ。
    矢橋家が起業の道を歩むのは、三郎兵衛の6代目・宗太郎から。長男は敬吉で、当主は龍吉龍太郎へと継がれ、林業、石灰業を興した。龍太郎はミツカングループの創業家、中埜家の7代目又ェ衛門の次女・茅子と結婚。その長男が現在、矢橋ホールディングスを率いる龍宜(52)だ。
    敬吉の次男は次郎。その孫が慎哉(66)でグループ会社・矢橋工業の社長を務める。父の宗一も同社の会長を務めた。
    (中略)
    一方、宗太郎の五男・亮吉は分家し、後に1人3業(金融、大理石、育英事業)を成し遂げる。長男・太郎が早世し、次男の次雄が亮吉を襲名。太郎の孫・修太郎(66)が次雄の養子となり矢橋大理石の社長を務める。
    亮吉の四男・五郎は、関ケ原製作所や関ケ原石材を興した。関ケ原製作所は現在、五郎の三男・昭三郎(74)が社長を経て会長を務めている。関ケ原石材は、長男・謙一郎が社長を務めた後、その長男・達郎(52)が社長を経て会長を務める。
    まだまだ矢橋家は逸材を輩出している。亮吉の長男・太郎の娘婿の浩吉は、イビデンの社長(1973年9月就任)、会長(81年6月就任)を務めた。五男・六郎は、洋画家で大理石モザイク壁画も手掛け日本近代洋画の革新に重要な役割を果たした。次女・孝子は、十六銀行の第4代頭取を務めた桑原善吉に嫁いだ。
    (中略)
    宗太郎の三男・友吉の孫・徳太郎は、岐阜天文台の副理事長や愛知淑徳短大の教授を務め世界一の精度を誇る「矢橋式日時計」を考案した。……」(岐阜新聞社2013年8月20日[11]
  3. ^ 矢橋家は、甚之丞と同業(大日本紡績)の小寺家と同郷(いずれも現・大垣市)という縁。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録』 第13版下巻、人事興信所、1941年、ハ-114頁頁。NDLJP:3430444/468 
  2. ^ a b c d 『紡織要覧』 昭和16年版、紡織雑誌社、1940年、会社・工場編12-13頁頁。NDLJP:1146024/149 
  3. ^ a b c 内外綿業年間 昭和6年版2021年6月閲覧
  4. ^ 橋口勝利「近代日本紡績業と労働者―近代的な「女工」育成と労働運動」17、19頁(表1)、20頁2021年7月3日閲覧
  5. ^ 渡辺純子「戦時期日本の産業統制の特質 : 繊維産業における企業整備と「10大紡」体制の成立」『土地制度史学』第38巻第2号、土地制度史学会(現 政治経済学・経済史学会)、1996年、6/17頁、doi:10.20633/tochiseido.38.2_1ISSN 0493-3567NAID 1100070197442021年7月3日閲覧 
  6. ^ 東洋紡績(株)『東洋紡績七十年史』(1953.05)”. 渋沢社史データベース. 渋沢栄一記念財団. 2020年5月12日閲覧。
  7. ^ 日本全国諸会社役員録』第42回 昭和9年2021年6月閲覧
  8. ^ 『日本全国諸会社役員録』第46回 昭和13年2021年6月閲覧
  9. ^ 『日本全国諸会社役員録』第46回 昭和13年
  10. ^ 『日本全国諸会社役員録』第28回 大正9年2021年6月閲覧
  11. ^ ぎふ財界をけん引してきた古今のリーダーたち 千紫万紅 ぎふ財界人列伝 矢橋家の人々 漢詩人から起業家まで 矢橋編(1)(岐阜新聞社、2013年8月20日)
  12. ^ a b c 人事興信所編『人事興信録 第32版 下』は159頁(原乙彦の項目)、人事興信所、1983年
  13. ^ 矢橋次郎 | 人事興信録(第8版)
  14. ^ 光源氏のモデル~源融公ゆかりの寺~淀殿も眠る【大阪・梅田】太融寺
  15. ^ …棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)…|清涼寺 コトバンク
  16. ^ 関ケ原の機器メーカー、敷地にアートな「人間村」 岐阜|朝日新聞 DIGITAL 2022年5月閲覧
  17. ^ a b Agency, Japan Science and Technology. “原 秀六 - 研究者 - researchmap”. researchmap.jp. 2022年9月23日閲覧。

関連項目