北条幻庵
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 明応2年(1493年) |
死没 | 天正17年11月1日(1589年12月8日) |
改名 | 菊寿丸(幼名)→伊勢長綱→北条長綱→幻庵宗哲(戒名) |
別名 |
通称:三郎、駿河守[1] 渾名:鞍打幻庵 |
戒名 | 金龍院殿明吟哲公大居士 |
主君 | 北条早雲→氏綱→氏康→氏政→氏直 |
氏族 | 伊勢氏→後北条氏 |
父母 | 父:北条早雲、母:栖徳寺殿 |
兄弟 | 北条氏綱、北条氏時、葛山氏広、北条長綱、長松院殿(三浦氏員室) |
子 |
時長(三郎)、綱重、長順、女(吉良氏朝室)、女(上杉景虎正室のち北条氏光室) 養子:上杉景虎(北条氏康の七男) |
北条 幻庵[2](ほうじょう げんあん) / 北条 長綱(ほうじょう ながつな)は、戦国時代の武将。伊勢長氏(北条早雲)と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に生まれた3男。箱根権現社別当。金剛王院院主。
生涯
初代・早雲の時代
北条早雲の男子の中では末子となる[3]。幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺した[3]。箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られる[3]。永正16年(1519年)4月28日、父から4400貫の所領を与えられた(『箱根神社文書』)。この頃の名乗りは菊寿丸である[3]。
二代・氏綱と三代・氏康の時代
大永3年(1523年)に兄・氏綱が早雲の遺志を継いで箱根権現を再造営している。この時の棟札には39世別当の海実と並んで菊寿丸の名が見える[3]。
後に近江・三井寺に入寺し、大永4年(1524年)に出家する(『宗長手記』)。この出家した年かその翌年に箱根権現の40世別当になったと思われ、天文7年(1538年)頃まで在職した[3]。別当になった際に長綱と名乗り、天文5年(1536年)頃から宗哲と名乗った(『藤川百首奥書』)。宗哲の名は大徳寺系の法名である(大徳寺系は宗・紹・妙・義の中から一字取ることを古格慣習としていた)[3]。
天文11年(1542年)5月、甥の玉縄城主・北条為昌の死去により、三浦衆と小机衆を指揮下に置くようになる[4]。天文12年(1543年)、「静意」の印文が刻まれた印判状を使用し始めた(『石雲寺文書』)。これは幻庵が自らの支配地強化に乗り出したものと思われ、その本拠地・久野(現在の小田原市)の地名を取って「久野御印判」と呼ばれる[4]。
永禄2年(1559年)2月作成の「北条家所領役帳」[5]によれば、家中で最大の5457貫86文の所領を領有した[4]。これは次に多い松田憲秀(2798貫110文)のほぼ倍で、直臣約390名の所領高合計64250貫文の1割弱を一人で領有したことになる[6]。
このように政治家か僧侶としての活躍が目立つが、馬術や弓術に優れ、天文4年(1535年)8月の武田信虎との甲斐山中合戦、同年10月の上杉朝興との武蔵入間川合戦などでは一軍を率いて合戦に参加しており[4]、また永禄4年(1561年)3月の曽我山(小田原市)における上杉謙信との合戦で戦功のあった大藤式部丞を賞するように氏康・氏政らに進言している(『大藤文書』)など、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していた[4]。
永禄3年(1560年)、長男の三郎(小机衆を束ねた北条時長と同一人物か?)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また北条氏康の弟北条氏尭を小机城主とした。しかし、程なく氏尭が没し、永禄12年(1569年)に武田信玄との駿河(静岡県)の蒲原城の戦いにおいて次男の綱重、3男の長順らを相次いで失ったため、同年、北条氏康の7男の北条三郎(上杉景虎)を養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して幻庵宗哲と号した。
永禄12年(1569年)、越相同盟の成立により、三郎(景虎)が越後の上杉謙信の養子となった後は、北条氏光に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・氏隆に継がせた。
最期と年齢に関して
天正17年(1589年)11月1日に死去。享年97という当時としては驚異的な長寿だった。ただしこれは『北条五代記』の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正年間と推定している。その根拠として、大永3年(1522年)に兄・氏綱が箱根権現に棟札を納めた際、幻庵の名が菊寿丸と記されており、この時点で幻庵は当時の成人と見られる15歳未満だった可能性が極めて高いことを挙げている。これが事実とすれば享年は15年以上若くなる。一説に文亀元年(1501年)生まれという説がある。また、没年に関しても現在では疑問視されており、天正12年(1584年)、天正13年(1585年)などの説がある[7]。
幻庵の死から9ヵ月後の天正18年(1590年)7月、後北条氏は豊臣秀吉に攻められて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡した(小田原征伐)。
人物像
作法伝奏を業とした伊勢家の後継者として文化の知識も多彩で、和歌・連歌・茶道[8]・庭園・一節切りなどに通じた教養ある人物であった。手先も器用であり、鞍鐙作りの名人としても知られ、「鞍打幻庵」とも呼ばれた。他にも一節切り尺八も自ら製作し、その作り方は独特で幻庵切りと呼ばれている。伝説によれば、伊豆の修善寺近郊にある瀧源寺でよく一節切りを吹き、滝落としの曲を作曲したとも云われている[9] 文化人としての幻庵の事跡は数多い。天文3年(1534年)12月18日に冷泉為和を招いて歌会を催し(『為和集』)、天文5年(1536年)8月には藤原定家の歌集『藤川百書』の相伝者である高井堯慶の所説に注釈書を著し、天正8年(1580年)閏8月には板部岡江雪斎に古今伝授についての証文を与えている(『陽明文庫文書』)。このように和歌への造詣の深さは当代一流であった[10]。また連歌にも長けており、連歌師の宗牧とは近江時代から交流を持ち、天文14年(1545年)2月に小田原で宗牧と連歌会を催した(『宗牧句集』)。
古典籍の蔵書家でもあり、藤原定家の歌集や『太平記』を所蔵していた[10]。狩野派の絵師とも交流があった[10]。
氏康の娘(吉良氏朝に嫁いだ)が嫁ぐ際に『幻庵おほへ書』という礼儀作法の心得を記した書を記しており、幻庵が有職故実や古典的教養に通じていた事は明らかである[10]。北条5代の菩提寺である早雲寺の庭園をつくった。
記録の残っている家臣では唯一、初代の北条早雲から5代氏直まで、後北条氏の全ての当主に仕えた人物である。庶民とも気安く接する度量があったという[11]。
『北条五代記』は幻庵について「早雲寺氏茂、春松院氏綱、大聖寺氏康、慈雲院氏政、松巌院氏直まで5代に仕え、武略をもて君をたすけ、仁義を施して天意に達し、終焉の刻には、手に印を結び、口に嬬をとなへて、即身成仏の瑞相を現ず。権化の再来なりとぞ、人沙汰し侍る」と評している。
脚注
註釈
出典
- ^ 『系図纂要』
- ^ 正確には「長綱」と「幻庵宗哲」が名乗った正式名称であり、「幻庵」という略称は正しくない(黒田基樹の研究に拠る)
- ^ a b c d e f g 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P305
- ^ a b c d e 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P306
- ^ 『小田原衆所領役帳 戦国遺文後北条氏編別巻』(東京堂出版、1998年 ISBN 978-4-490-30546-3)に全文収録。
- ^ 黒田基樹「戦国時代の侍と百姓」季刊『iichiko』No.111、2011年夏。
- ^ 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P304
- ^ 茶道は山上宗二から学んだ。
- ^ 尺八修理工房幻海. “滝落しの曲”. 2011年11月7日閲覧。
- ^ a b c d 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P307
- ^ 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P308
参考文献
- 書籍
- 『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』歴史群像、2007年
- 史料
- 『北条家所領役帳』
- 『箱根神社文書』
- 『宗長手記』
- 『藤川百首奥書』
- 『石雲寺文書』
- 『大藤文書』
- 『北条五代記』
- 『為和集』