加藤景廉

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加藤景廉
『山木館の月』(月岡芳年『月百姿』)兜を囮にして山木兼隆に斬りかかる加藤景廉
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 保元元年(1156年)?
死没 承久3年8月3日1221年8月21日
改名 景廉、覚蓮房妙法
別名 藤次郎、加藤次、景廉法師
墓所 静岡県伊豆市牧之郷 一族五輪塔
官位 従五位、左衛門少尉、検非違使
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝頼家実朝
氏族 藤原利仁流、加藤氏
父母 加藤景員
兄弟 光員景廉
遠山景朝遠山氏祖)、加藤景尚加藤景長)、加藤景義加藤景経
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加藤 景廉(かとう かげかど)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将鎌倉幕府御家人藤原利仁の流れを汲む加藤景員の次男。

経歴

加藤氏は元々伊勢国を本拠としていた。伊勢加藤氏の館は、安濃津の近くの下部田(現在の三重県津市南羽所)にあったと言われているが、明確な所在は不明(『津市史』より)。平氏との争いにより父・景員に従って伊豆国に下り、工藤茂光らの協力を得て土着勢力となった。嘉応2年(1170年)に伊豆諸島で勢力を伸ばした源為朝討伐に従軍し、大敗して自刃した為朝の首をはねて、戦功を挙げたと伝わる。治承4年(1180年)に源頼朝が平氏打倒のため挙兵すると、父や兄と共にその麾下に参じ、平氏目代山木兼隆を討ち取るという大功を立てた。

頼朝が石橋山の戦いに敗北した後、兄・加藤光員と共に甲斐国大原荘(富士吉田市富士河口湖町)に逃れるが、やがて武田氏と共に駿河国に侵攻、鉢田の戦い目代橘遠茂を攻め滅ぼす。その後頼朝は関東を制圧して鎌倉殿と称されるようになり、景廉は側近として頼朝に仕えた。病持ちであったと見られ、寿永元年(1182年)6月7日、鎌倉由比浦で弓馬の芸の披露が行われた後の宴席で気を失い、佐々木盛綱が大幕で景廉を包み抱えて運び出したという。翌日、頼朝が車大路の景廉の家へ見舞いに訪れている。

元暦元年(1184年)から翌年にかけての源範頼率いる平氏追討に病身を押して参加、頼朝の賞詞を得る。その後の奥州合戦でも戦功を立てた。頼朝の信任は厚く、建久4年(1193年)頼朝の命により安田義資を誅殺し、その父・義定の所領遠江国浅羽庄地頭職を与えられた。

頼朝が死去した後、正治2年(1200年)に梶原景時の変梶原景時が滅ぼされると、これと親しかったため一旦は連座して地位を失う。建仁3年(1203年)9月の比企能員の変において、北条時政の命で比企能員を謀殺した仁田忠常を、北条義時の命によって景廉が謀殺している。また能員の嫡男の比企余一郎兵衛尉は女装して戦場を抜け出したが、道中で加藤景廉が首を取っている。その後も和田合戦などの諸戦で幕府方として働き、再度元老の座に返り咲いた。三代将軍・源実朝が暗殺された際、警備不行き届きの責任を感じて出家し覚蓮坊妙法と改名。承久3年(1221年)6月の承久の乱では宿老の一人として鎌倉に留まったが、8月3日に没した。

領地

遠江国浅羽荘、伊豆国狩野荘、甲斐国大原荘・小松荘、三河国の河津荘、上総国の角田荘、備前国の上鴨荘・下鴨荘、美濃国遠山荘(現在の岐阜県恵那市中津川市の大部分と瑞浪市の陶地区)も領地として与えられた。恵那市岩村町の八幡神社には加藤景廉が祭神として祀られており、岩村町歴史資料館には加藤景廉公の神像が保存されている。

兄弟

兄の加藤光員は、元久元年(1204年)、三日平氏の乱で平家残党を追討した賞を受け、西面武士として検非違使に任ぜられ、大夫判官と称した。その後、伊勢守となり、承久3年(1221年)の承久の乱では京方に属したため所領の伊豆国狩野牧は没収され、景廉に与えられた。没年は不明だが、乱後間もなく死去したものと見られる。

景廉の子で、光員の甥にあたる遠山景朝の領地である美濃国恵那郡遠山荘の明知(現在の岐阜県恵那市明智町)の龍護寺に、光員一族の墓とされる五輪塔が存在している。

子孫

長男の景朝が岩村城を本拠地として遠山氏の初代となり、遠山景朝と称し地頭となり戦国時代末期まで存続した。その分家苗木遠山氏は江戸時代に苗木藩1万石の大名となり廃藩置県まで存続して明治に子爵となった。また分家明知遠山氏江戸幕府旗本となった。江戸町奉行となった遠山景元遠山の金さん)は、明知遠山氏の分家の子孫である。

甲斐国都留郡上野原は鎌倉幕府に功績のあった加藤景長が支配した。 戦国時代、加藤氏は数代にわたって甲斐武田氏や小山田氏に従って当地を支配し、大倉要害山などに砦を造るなどして国境を守ったといわれている。加藤景忠は保福寺や牛倉神社を造営して当地の支配を強めたが、武田滅亡時に妻子共々討死にしその遺領は、近世初頭にかけて北条・徳川・豊臣の覇権争いに巻き込まれた。

その他に豊臣秀吉の直臣として活躍した加藤嘉明など、景廉の子孫は伊勢、伊豆、甲斐、美濃尾張三河、その他全国に広まった。

画像集

参考文献

関連項目