伊東大貴

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伊東大貴
基本情報
誕生日 (1985-12-27) 1985年12月27日(38歳)
出身地 日本の旗 日本
北海道下川町
選手情報
クラブ 雪印メグミルク
使用メーカー フィッシャー
ワールドカップ
シーズン 2002年-
優勝回数 4回
他の表彰台 9回
表彰台獲得数 13回
獲得メダル
男子 ノルディックスキー
ノルディックスキー世界選手権
2007 札幌 ラージヒル団体
2009 リベレツ ラージヒル団体
最終更新日:2012年3月8日
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伊東 大貴(いとう だいき、1985年12月27日 - )は、日本のスキージャンプ選手。北海道下川町出身。

来歴・人物

元々はアルペンスキーをやっていたが、小学生の時にジャンプ競技に興味を持ち、親の目を盗んでジャンプを始める[1]

中学組で圧倒的な強さを見せていた2000年には1月10日HBCカップジャンプ競技会で、歴代最年少の14歳と14日でラージヒルの公式試合に出場し25位となっている。またこの時は試合の前に練習で飛んでいるので、葛西紀明を抜き大倉山を跳んだ当時の歴代最年少記録も樹立している(現在の記録は2007年に小学4年生でテストジャンパーとして跳んだ伊藤将充)。この伊東の快挙で、以後中学生年代でもラージヒルの大会にエントリーできるようになった。

下川商業高校を経て一時は雪印乳業への入社を決めていたが、同郷で幼なじみの千田侑也土屋ホーム入社を決めたため、自身も一転して土屋に入った。

2005年1月6日オーストリアビショフスホーフェンでのジャンプ週間最終戦でこの台のバッケンレコードとなる143mを飛び初めてW杯の表彰台(3位)に立った。また、同年3月20日にはスロベニアプラニツァで行われたW杯最終戦のフライングヒルで2本目に222.5mを飛び、19歳ながら日本人で初めて220mの壁を突破している。

豪快なジャンプスタイルだけでなく、底抜けに明るくいつも笑顔でいることや必要以上にユーモアとウィットに富んだ発言を連発することなどからも、原田雅彦の後継者として期待されている。また国内大会の表彰式などでは、撮影タイムで表彰台から降りて自分の携帯電話で他の表彰選手を撮影して観客の笑いを取ることが時折見られる。

2008年2月に結婚し新居を構えたが、その新居を手がけたのは2006年シーズン限りで現役引退し、土屋ホームの社業に専念していた千田であった。

この年のサマーグランプリでは3度2位に入る活躍を見せたが、帰国後の10月6日に土屋ホームがチームへの支援を縮小したのに伴い、木下監督、伊藤謙司郎と共に10月限りで退社し、新天地を求めることが明らかになった[2] が、所属先が決まらず、土屋ホーム所属期限を12月いっぱいまで延長した後、木下監督、伊藤とともに2009年1月1日からはサッポロスキッドに名義を借りていた(大会に出場するための暫定的な措置で、山田いずみ渡瀬あゆみもサッポロスキッドの名義を借りていたことがある。)。また、1月21日には伊藤とともに日立製作所の支援を受けることが決まった。2月6日には木下監督、伊藤謙司郎と共に、携帯ショッピングサイトを手がけるモバイルコンビニの支援を受けることが発表された[3]

2009年4月1日付で雪印乳業株式会社(現 雪印メグミルク株式会社)に入社[4][5] した。

2011-2012シーズンは序盤躓いたもののすぐに好調に転じ、度々W杯の表彰台に立つようになる。一時帰国した2012年1月22日のTVh杯で大倉山ジャンプ競技場のバッケンレコード(146.0m)を記録すると、好調そのままに1月28日、地元札幌でのW杯で日本人として12人目となる念願の初優勝を果たした[6]。翌29日も優勝し、日本人選手としては1999年1月の葛西紀明以来、13季ぶりのW杯連勝を達成[7]。また、2月26日にはヴィケルスンでのスキーフライング世界選手権団体戦の1本目で240.0mの日本人歴代最長不倒を達成した。3月4日のフィンランドラハティ大会では国外でのW杯初優勝を果たし、続く3月8日のノルウェートロンハイム大会で4勝目。2011-2012シーズン合計で9度表彰台に立ち、シーズン個人総合成績で自己最高の4位に入った。日本人選手が個人総合成績で10位以内に入るのは2003-2004シーズン8位の葛西紀明以来である。

主な競技成績

日本国内での主な競技成績

外部リンク