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丙午

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干支
1
甲子
2
乙丑
3
丙寅
4
丁卯
5
戊辰
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己巳
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庚午
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辛未
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壬申
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癸酉
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甲戌
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乙亥
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丙子
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戊申
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己酉
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壬子
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甲寅
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乙卯
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丙辰
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丁巳
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戊午
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己未
57
庚申
58
辛酉
59
壬戌
60
癸亥
十干十二支

丙午(ひのえうま、へいご)は干支の一つ。

干支の組み合わせの43番目で、前は乙巳、次は丁未である。陰陽五行では、十干は陽の十二支は陽ので、比和である。

丙午の年

丙午は干・支ともに火性である。

西暦年を60で割って46が余る年が丙午のとなる。

丙午の年
1千年紀 2千年紀 3千年紀

迷信

丙午の年は火性が重なることから、「この年は火災などの厄災が多い」などの迷信が生まれた。次第に、その年に生まれた人の性質は激しいものとなるという迷信に転化した。

さらに、江戸時代前期に、井原西鶴の『好色五人女』で有名となった八百屋お七が丙午の生まれだといわれていたことから[1]、江戸時代中期以降には、この年生まれの女性は気性が激しく、夫を尻に敷き、夫の命を縮める(男を食い殺す)、死後「飛縁魔」という妖怪になるという類の迷信が信じられるようになった。1846年(弘化3年)の丙午には女の嬰児が殺害(間引き)されたという話が残っている。

明治時代以降もこの迷信は続き、1906年(明治39年)の丙午では、前年より出生数が約4%減少した。生まれた女児の出生届を前後の年にずらして届け出ることもあったという[2]。一方、この年に生まれた小説家坂口安吾は、本名は丙午を意味する炳五という名を付けられ、親類から「男に生まれて良かった」と言われたという話を文章に残している。この1906年生まれの女性が結婚適齢期となる1924年(大正13年)頃からは迷信を否定する談話や、縁談が破談となった女性の自殺の報道などが相次ぎ、丙午生まれの迷信が女性の結婚に影響したことが伺われる[3]夏目漱石1907年に発表した小説『虞美人草』において、主人公の男を惑わす悪女、藤尾を『藤尾は丙午である』[4]と表現している。

橙色の線は、1950年から2008年までの、日本の出生率を示している。1966年の出生率が明らかに低い。

そして、戦後になっても「丙午」の迷信は尾を引き、1966年(昭和41年)の丙午では、子供をもうけるのを避けたり、妊娠中絶を行った夫婦が地方や農村部を中心に多く[5]、出生数は136万974人[6]と他の年に比べて極端に少なくなった。この前年および翌年の出生数が増えたのは丙午の余波といわれる。なお、出生数が1966年を下回るのは本格的な少子化時代に入った1987年以降である。1966年に生まれた子供は人数が少なかったことから、この学年度(翌1967年の早生まれを含む)の高校受験大学受験が他の年より容易だったのかについては当時からしばしば論じられた話題であったが、大学一般の入学率については有意な差がみられないものの、国公立大学への進学率については1985年において上昇していることがわかっている[7]。またこの年の子供は第一子(初めての子供)である比率が50.9%で過去最多であり、少子化が進んだ現代でもこの数値は超えられていない。

当時の日本でも丙午に対して疑問がなかったわけではない。1965年11月に、山形市で、法務省山形地方法務局が主催となった「ひのえうま追放運動」が展開され、同月21日には市内パレードで啓発を呼びかけている。同法務局によると、子どもを産む産まないで、離婚調停に至ったとか、近所から嫌がらせを受けたなどの相談が多発したためである[8]。また、群馬県粕川村(現・前橋市粕川町)でも、村長主導で「迷信追放の村」を宣言して、同様の運動が行われている。村役場が1906年とその前後の年に誕生した女性1400人を調査して、丙午には根拠がないことを広報するなど取り組んだ[9]文仁親王妃紀子が1966年の丙午生まれということで、最近はこの迷信も薄まりつつある。

丙午の月

西暦年の下1桁が2・7(十干が)の年の5月が丙午のとなる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月芒種から小暑の前日まで)を適用する場合もある。

丙午の日

選日

丙午の日は天一天上の14日目である。また、土以外の比和では唯一八専に含まれない。

四柱推命

四柱推命で注意を要するのは「丙午年生まれ」でなく「丙午日生まれ」で、「戊午日生まれ」や「壬子日生まれ」と共に十二運が最強の帝旺、宿命星日刃がつき、男女とも異常なまでに強い性格となり結婚相手との間に支障をきたしやすいとされる。男性はワンマンな亭主関白、女性もカカア天下で、家長になるべき夫の面目まるつぶれになることから「夫を食い殺す」などの迷信がうまれたものと推測する。

脚注

  1. ^ 実際には戊申の生まれという説が有力。
  2. ^ 高橋眞一「明治大正期における地域人口の自然増加と移動の関連性」『國民經濟雜誌』187巻4号、神戸大学、2003年。
  3. ^ 報道の一例 「ことし十九歳の迷信に悩む娘たち 縁が遠いと「丙午」をかつぐ」 『朝日新聞』1924年2月10日付朝刊
  4. ^ 青空文庫 夏目漱石 『虞美人草』
  5. ^ 統計上も人工中絶が多いことが報じられた。「異常に多い人工中絶 厚生省・一~三月の調査」『朝日新聞』1966年8月22日付夕刊
  6. ^ 内閣府『青少年白書』平成18年版
  7. ^ 「丙午世代のその後-統計から分かること」赤林英夫(日本労働研究雑誌)[1]PDF-P.5
  8. ^ 河北新報』1965年11月。
  9. ^ 朝日新聞』 2010年12月18日 夕刊〈昭和史探訪〉。web版:昭和史再訪セレクション Vol.78 ひのえうま 迷信追放に挑んだ村”. 朝日新聞. 2012年2月13日閲覧。

関連項目

参考文献

  • 新津隆夫藤原理加『1966年生まれ 丙午女(ヒノエウマ・ウーマン)…60年に一度の元気者』小学館(原著1996年12月)。ISBN 9784093872089