上条城 (尾張国)
上条城 (愛知県) | |
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土塁と天守台と石垣の一部 | |
別名 | 上條城 |
城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 | 不明 (非現存) |
築城主 | 小坂光善 |
築城年 | 建保6年(1218年) |
主な改修者 | 小坂雄吉 |
主な城主 | 小坂光善、林重之、林盛重、小坂雄吉 |
廃城年 | 天正14年(1586年) |
遺構 | 天守台、石垣、 土塁、堀、母屋、井戸跡、石碑 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 母屋 |
位置 | 北緯35度14分22.4秒 東経136度59分3.3秒 / 北緯35.239556度 東経136.984250度座標: 北緯35度14分22.4秒 東経136度59分3.3秒 / 北緯35.239556度 東経136.984250度 |
上条城(じょうじょうじょう)は、尾張国春日井郡上条(現在の愛知県春日井市上条町)に存在した平城。江戸時代には春日井郡57ヶ村の大庄屋(林家)の屋敷であった。
概要
市の中南部の平地に位置おり、上条城の東部を内津川、庄内川が南北に流れている。 小坂光善が上条城を築城してからが始まりで、光善は築城した後に近江国へ移り住んでいたが、林重之の代に上条城に戻り、名字を(小坂)から(林)と改姓した。林家は林重之が上条用水を切り開くなど、代々地元の農業の振興に努めたといわれる。 [1]上条城が廃城になった後も林家はこの地で林重登を初め林金兵衛まで15代に渡って庄屋に従事し、明治時代に至る。
天守台の頂上部には今井兼平と磯城津彦命を奉っていたコンクリート製の祠の土台が残っている。この天守台は天守閣が取り壊された後に村人を召集したり、水害や戦の際にここの頂上に登って村人に知らせたことから「人呼びの丘」とも呼ばれている。
歴史・沿革
鎌倉・南北朝時代
室町・戦国時代
- 同年に清洲城主の織田信光が家臣の坂井大膳により殺された際、織田信長の兵召集に応じた吉田城主の小坂久蔵は坂井の軍勢により討死した。久蔵には子がなく、相続されずに放置してあったのを信長は家臣の小坂雄吉に跡を継がせようとした。元々初代吉田城主である小坂孫四郎の孫の小坂吉俊の孫が雄吉の生母であり、吉俊の息子の関係で、両家はもともと親戚であった。こうして小坂家を継ぐことになった雄吉は、吉田城と上条城の城主になり、信長の命令で上条城にやってきた家臣の佐久間氏ら約500人と共に上条城に来た。
- 永禄元年(1558年)に林盛重はここの全ての領地を信長に献上し、信長の支配下になった。盛重は帰農して武士の家系が終わり、林家は代々地元の豪農として活躍した。その後、小坂雄吉は城を規模を大きくするため大改修を行った。この頃の所領は約24000石であった。
- 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにあたり、盛重の息子林重登は、池田恒興からの要請をうけて城跡など旧跡を修理して砦を造り、道の案内などをした。小坂雄吉は伊勢国長島に出陣した。[2]池田恒興が率いる軍が一時的に徳川家康の本拠の三河国を攻める際に足がかりとしてこの城に入城した。上条城で2泊した池田恒興は、後に長久手で徳川家康が率いる軍と衝突して森長可らと共に戦死した。
- 天正14年(1586年)豊臣秀吉は上条城や吉田城、小牧にある諸城を取り壊す事を条件に戦いが終えたため、天守閣を始めとした城の建造物は壊され、上条城や周辺に存在した吉田城等の城は廃城になったが林重登が上条城跡に新たに屋敷を構えた。
- 小牧・長久手の戦いが終わった後、豊臣秀吉は自ら兵を卒いて竜泉寺の帰りに林重登の屋敷に来て少しの期間ここに滞在した。慶長年間初期(1596年~1598年)に、秀吉がこの時の礼に重登を春日井郡57ヶ村の総代庄屋に指名し、林家は重登から林金兵衛の代まで大庄屋として勤めた。
明治・大正時代
昭和時代
現代
- 本丸の跡地は以前は個人宅だったが、現在は最初から堀や土塁などの遺構がなかった所を月極駐車場にして、天守台や石垣、堀、土塁などの遺構が残っているところはそのまま残されており、石碑の建っている少し高いところから城全体を見ることができる。付近には母屋が3棟ほどある。本丸の脇に林金兵衛の屋敷跡の石碑が2つ建立されている。[3]
- 平成18年(2006年)に春日井市が調査した際に一部に水田耕土と思われる層位が発見され、水田を埋め立てて上条城が築かれた可能性があるといわれている。現存する北側の堀や土塁は築城当初とは形が異なっていることが確認されたことから、築城後に改修されたと見られている。
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上条城の周辺に残っている母屋
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石碑のある所から望む天守閣跡
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本丸、南西の堀
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本丸、北の堀
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本丸、西の堀
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二の丸、西の土塁、堀跡
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本丸、井戸跡
構造
縄張
城郭の形式は輪郭式平城。本丸を中心として周りを二の丸と三の丸で囲っており、土塁を3重に、堀を4重に廻らされていた。三の丸の堀の西側を南北に水路が流れていた。春日井市内では最も古い城で、市の中南部にある春日井駅のすぐ南側に位置しており、城の東部を内津川、庄内川が南北に流れている。城が建てられる以前はゆるやかな傾斜がある湿地帯であった。
本丸
本丸は長方形をしており、北西隅に天守閣が設けられ、南東に1ヶ所虎口があるので門があったと考えられる。本丸の規模は東西約75m、南北約50mの約3750m2あり、現在の堀と土塁の比高差は最大で約6mある。本丸跡地に以前は屋敷が建っていたが、屋敷は壊されて以前は見えなかった石垣や土塁、堀、天守台に入れるようになった。最初から堀や土塁などの遺構がなかった部分は月極駐車場になっている。南西の方に石碑があり、堀が残っている。駐車場の南東側の脇に井戸があったといわれているが現在は残っていない。
二の丸(寄京)
二の丸には北西隅と南隅の2ヶ所に櫓が設けられ、南東に1ヶ所虎口があった。本丸を含めた二の丸の規模は東西約150m、南北約180mの27000m2ある。現在は母屋だけが残り、堀跡は側溝などに利用されている。それ以外は道路や民家などになっている。
三の丸(佐久間屋敷)
三の丸は上条城の面積の約3分の2を占めており、南東に1ヶ所虎口がある。規模は東西約370m、南北約340mで周囲と北西から南東に土塁と堀を廻らせていた。弘治2年(1556年)稲生の戦いの際に織田信長に命じられ、小坂雄吉は佐久間氏らと共に吉田城と上条城の周辺の守備をし、稲生の戦いの後も佐久間氏らは上条城と吉田城に年末まで駐留した。当時、佐久間氏は三の丸に屋敷を構えていたことから(佐久間屋敷) と呼ばれている。その後、本拠の御器所に戻った。三の丸跡地にはバス停がある。
柴田屋敷
柴田屋敷 (愛知県) | |
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城郭構造 | 屋敷 |
築城主 | 柴田康端 |
築城年 | 不明 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | なし |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
柴田屋敷(しばたやしき)は上条城内に存在した屋敷。
概要
上条城の復元図を見ると本丸から南東の方向に「柴田屋敷」と書いてある。密蔵院の文章の中に「頼郷[4]城主であった柴田康端が息子の柴田亀千代の病気の祈祷料として上田五反歩を寄進した」との記事があり、柴田康端の屋敷と言われている。
歴史
長崎目付に従事した経験のあった柴田康端が建てた。構造などの詳細は不明で、遺構も残っていない。現在は宅地や道路が整備されているため、詳細を調べることは困難である。
現地情報
所在地
交通アクセス
- 鉄道
- 路線バス
- はあとふるライナー
- 上条町2丁目バス停下車 東へ徒歩約0分(三の丸跡地)
- 上条町北バス停下車 西へ徒歩約2分
- 自動車道
関連項目
参考文献
- 春日井市教育委員会編著 『春日井の人物』 平成7年3月、P50-70
- 春日井市教育委員会編著 『春日井市誌』 P96-100、138-142、331
脚注
- ^ 参考資料:郷土誌かすがい 第6号、春日井市図書館「中世の城館 春日井市周辺」
- ^ 小坂雄吉が戻るまでは森川権六らが城番をしていた。
- ^ 上条城の石碑も存在したが現在は撤去されている。
- ^ 上条城の二の丸、三の丸部分に位置する地名。