ヘンリー・モーガン

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ヘンリー・モーガン

ヘンリー・モーガン(Henry Morgan, 1635年 - 1688年8月25日)は、17世紀カリブ海で活動したイングランド出身の海賊私掠船長バッカニア)。略奪者だが、当時イングランドと敵対していたスペイン帝国に対する活躍から西インド諸島におけるイングランド植民地で人気を博し、チャールズ2世 (イングランド王)からナイトを賜り、ジャマイカ島代理総督などの国家の役職も務めた。

生い立ち

ウェールズモンマスシャー州ルランムニー生まれ。

1650年西インド諸島バルバドス島に渡るが、そこで5年間の農園での年季奉公を強いられる。しかし、モーガンは生まれつき体が大きく、厳しい労働に耐えることができたので、20歳前にもかかわらず、奴隷や奉公人を監督する立場になった。農園主もモーガンのことを気に入り、モーガンに自由に読書をすることを許した。そして、1655年に年季奉公の期限が切れると、モーガンは海賊の世界に足を踏み入れる。

以上の話は、エスケメリングの「アメリカのバカーニア」に記された内容であるが、モーガン自身は、幼少期に年季奉公に出されたという話は嘘であり名誉を毀損するものであるとして出版社を訴えている[1]。一方、伝記作家クルックシャンクの説によると、モーガンはウェールズ南部の軍人家系のジェントリ出身であり、西方計画時にジャマイカに渡ってきた兵士だという[2]

最初の遠征

1655年にモーガンは、バルバドス島からジャマイカ島に渡り、海賊船員を募集していた海賊船に入るが、その後は謎に包まれている。どうやら、仲間を集めて海賊稼業で金を貯めていたらしい。そのころのモーガンは仲間に慕われ、船長にまでなったようである。

その後、ジャマイカ島から西に移動し、カンペチェ湾ニカラグア沿岸で海賊行為を働いていたが、インディオからグラナダのことを聞いた。当時のグラナダは近隣の産物の集積地として繁栄していた。モーガンは全長190キロのサン・ホアン川を1週間以上かけて渡り、ニカラグア湖を5日かけて北上した後、月明かりを利用してグラナダを奇襲した。モーガンは逃げ遅れたスペイン人教会の中に押し込め、海賊襲撃に便乗してスペイン人を襲った奴隷のインディオとともに略奪を行った。カヌーで川を上ってきたため財宝はあまり積み込めなかったが、この遠征により、ジャマイカでモーガンは有名になった。

その後、グラナダ遠征で得た富で、モーガンは農場を買い、30歳のときに、ジャマイカ島の総督になった叔父の娘と結婚した。

キューバ遠征

その後モーガンは、叔父の後にジャマイカ島総督に就任したトーマス・モディフォードから、海賊のなかでも傑出した指導者であったマンスヴェルトを紹介された。彼はサン・カタリーナ島の占領を計画しており、モーガンは説得されて、その遠征の副指揮官となった。しかし、マンスヴェルトの急死や、スペインが島の防備を固めたため、この遠征は失敗に終わった。

モーガンが次の遠征の目的地としたのが、キューバ島であった。モーガンは仲間と相談してこの遠征を決めたのだが、船の中にいたスペイン人捕虜にこの会議を聞かれ、その捕虜が逃げ出したことによりエル・プエトル・デル・プリンシペルの町に海賊襲撃が伝わってしまった。このため、町へと続く道は塞がれていた。しかし海賊たちは森の中を通り、兵に気付かれずに町に到着することができた。町を占拠した海賊は住民を脅し、8レアル銀貨5万枚を奪ってジャマイカ島に帰っていった。このとき、イギリス人海賊とフランス人海賊がいさかいをおこし、イギリス人がフランス人を殺してしまった。モーガンは加害者を裁判にかけると約束したが、フランス人海賊たちは、モーガンから離れていってしまった。

ポルト・ベロ遠征

ポルト・ベロ(地図はこちら)遠征の際、モーガンが苦労したのは仲間集めであった。キューバ遠征の事件でフランス人海賊が集まらなかったため、460人しかこの遠征に参加しなかった。ポルト・ベロは「難攻不落の要塞」といわれており、参加人数の少なさに遠征の失敗を心配する仲間もいた。モーガンはそんな仲間を励まし、激しい攻防の末、奇襲作戦でポルト・ベロを占領した。パナマ市総督は救援軍を送ったが、逆に海賊に襲われることになった。モーガンは兵を捕虜とし、パナマ市総督に住民の身代金の要求をした。このとき、パナマ市総督はモーガンに「海賊の武功を示すものを送ってくれないか」と言い、モーガンは1丁のピストルと数発の弾丸を渡し「これを12か月間保管しておいてください。自分自身で取り返しに行きます」と言った[3]。総督も金の指輪を渡し「ポルト・ベロほどはうまくいかない」と言ったという[3]

結局パナマ市は身代金を払わず、住民が土の中から掘り出した身代金がわりの10万ペソと宝石、25万ペソの現金、奴隷などの奪ったものを乗せて、モーガンはジャマイカ島に引き上げた。ポルト・ベロを簡単に攻略されたことで、本国のスペイン人はモーガンを悪魔のように恐れた。

マラカイボ遠征

モーガンはこの遠征の際、8隻の船と500人の部下しか自由にできなくなっていた。この遠征の前、モーガン主催のイギリス本国から赴任してきた役人を迎えるパーティでの爆発事故(オックスフォード号事件)で、モーガンと個人的に親しい海賊の頭株たちが死亡して、モーガンの求心力が低下したためである。モーガン自身も爆発で海に吹き飛ばされたが、奇跡的に無事だった。1669年2月6日、モーガンはマラカイボの町を襲った。しかし、町は空っぽで、住民はもっと奥の町のヒブラルタルに隠れていた。モーガンは住民に拷問を行い、財宝を強奪した[4](資料には、マラカイボはフランソワ・ロロネーに襲われたことがあるため、住民は財宝を差し出したという話もある)。

たんまり財宝をせしめたモーガンだが、ジャマイカ島に帰る際、河口でスペイン軍に船を囲まれ、投降するように勧告された。モーガンは部下にこのことを話し、降伏するか戦うかを決めさせた。海賊たちは戦うことを決め、モーガンは火舟作戦によりスペイン船3隻のうち2隻を沈め、スペイン軍を恐れさせた。このことは、モーガンの最高の武勇伝とされている。

パナマ遠征

この遠征が決まると、モーガンは参加する海賊を集めて規律や怪我をしたときの保障を発表した。そして、出発する際に私掠許可状を持っていたのであるが、ジャマイカ島総督から渡された許可状は5か月以上前に期限が切れたものだった。このとき、スペインとイギリスの間でマドリード条約が交わされ、両国は友好状態にならざるをえなかった。モーガンは知ってか知らずか、この許可状を使い続けた。

1670年12月20日、モーガンらはサン・カタリーナ島に到着した。小船に白旗を掲げさせて様子を見に行かせたモーガンだったが、返事は「島は明け渡すから、総督の名誉のために模擬戦争をしてくれないか」というものだった。策略を疑ったモーガンは「もし約束を破ったら本当に攻撃する」と釘をさして承諾した。実際、スペイン兵は空砲しか撃ってこず、モーガンに降伏した。

1671年、モーガンらはチャグレス川に到着する。出発するとき、食料は途中の村から奪ってくることを想定していたため、ほとんど持って行かなかった。しかし、どの村も住民は食料を持って逃げており、海賊たちは皮袋を食べなければならなかった[5]。しかも、6日目にスペイン兵が現れたうえにインディアンの妨害にもあって、海賊にも死傷者が出た。しかし、幸運にも得られた食料で命をつなぎ、パナマ市に進撃し、2時間ほどの戦闘で海賊が勝利した。市は総督の命令(モーガンの命令など諸説あり)で火に包まれ、モーガンはダゴバ島に逃げた住民を追って莫大な財宝を手に入れた。この遠征は海賊史上最大の遠征といわれている。しかし、財宝の分配のときに部下が分け前が少ないと文句を言い始めた[6]。やがて、モーガンが財宝を横領しているのではないか、という疑惑が広がり、命の危機を感じたモーガンは少数の部下をつれてジャマイカ島に帰った。

モーガンはパナマである女性(名前は不明)に恋をして、無理やりジャマイカ島に連れ帰ろうとしたが、結局諦めた。

ジャマイカ島代理総督

ジャマイカ島に帰還したモーガンは、ポート・ロイヤルでは人気者であった[7]。しかしイギリス本国では、パナマ遠征に対してのスペインの怒りの抗議があったため、モーガンとジャマイカ島総督モディフォードを拘留し、ロンドンに送らなければならなかった[8]。ところが、2人とも船の中での病気を理由にして、釈放された。そればかりではなく、2人とも国家の役職つきでジャマイカ島に戻ってきた。モーガンは治安判事、海事裁判所長などを歴任し、1680年にはジャマイカ島代理総督にまでなった。モーガンはポート・ロイヤルから海賊船を締め出し、「3か月以内に海賊を廃業した者には土地を与えるが、廃業しない者は絞首刑にする」と最終通告を出した。しかし、裏ではずいぶん海賊を見逃していたようである。

その後、モーガンに政界から抹殺されたリンチ卿がジャマイカ島総督として赴任してきた。リンチ卿は、モーガンが海賊関係の裁判の判決を、陪審員を脅して変えさせていることや、モーガンの作った私党「ロイヤル・クラブ」の横暴ぶりをイギリス本国に伝え、そのせいでモーガンは全ての役職を解任させられた。

1688年に友人がモーガンが政界に復帰できるようにとりはからったが、1688年8月25日に死亡した。酒の飲みすぎもしくは肺結核が原因と言われている[9][10]。モーガンの葬儀は、総督級のものだった。現在モーガンの墓は、地震のため海に沈んでいる。

その後のカリブの海賊

モーガンの死後、イギリスの海賊はスペイン領に対する略奪行為、侵略を一切禁止される[11]。そのため、カリブの海賊の主役はフランスの海賊に移ってゆく[11]。しかしそれも、1697年にイギリス、スペイン、フランス、オランダの間にライスワイク条約が交わされると、カリブの海賊はなりをひそめてゆく[11]。海賊が返り咲くのは、18世紀になってからである。

ヘンリー・モーガンを主人公とした作品

小説

脚注

  1. ^ 石島、(1992)、p26-27
  2. ^ 『海賊の大英帝国』p87
  3. ^ a b 『カリブ海の海賊たち』p57-58
  4. ^ 『カリブ海の海賊たち』p60
  5. ^ 『カリブ海の海賊たち』p66
  6. ^ 『カリブ海の海賊たち』p68
  7. ^ 『カリブ海の海賊たち』p69
  8. ^ 『海賊の大英帝国』p92
  9. ^ 『世界の海賊大図鑑2』p31
  10. ^ 『カリブ海の海賊たち』p72
  11. ^ a b c 石島、(1992)、p204

参考文献

  • 石島晴夫(著)、増田義郎(監修)『大航海者の世界5 カリブの海賊ヘンリー・モーガン―海賊を裏切った海賊―』原書房、1992年3月
  • クリントン・V・ブラック『カリブ海の海賊たち』増田義郎訳、新潮選書、1990年
  • 森村宗冬『世界の海賊大図鑑2:大航海時代の海賊たち』ミネルヴァ書房、2013年、ISBN 9784623067626
  • 薩摩真介『海賊の大英帝国』講談社、2018年

関連項目