フランソワ・ロロネー

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フランソワ・ロロネーのイラスト。1684年出版のThe History of the Bucaneers of America(アメリカ海賊史)より

フランソワ・ロロネー(François l'Olonnais)は、1660年代に活躍したカリブ海海賊(バッカニア)(1635年 - 1667年[1])。 本名はジャン=ダヴィード・ノー(Jean-David Nau)。「ロロネー(l'Olonnais)」は、出身地のフランス西部のレ・サーブル=ドロンヌ (les Sables-d'Olonne) に由来する「オローヌの者」と言うほどの意味の通り名である。

資料によってはロロノワ[2]/ロロノア[1][3](L'Olonnois, Lolonois)、ロロナ(Lolona)、また英語風に「フランシス・ロロノア」[1]と表記する場合もある。

生涯[編集]

最下層の家に生まれたロロネーは、1650年代に年季奉公人としてカリブ海西インド諸島に送られた。しかしそこから脱走して様々な島を渡り歩き、いつしかカリブ沿岸のスペイン植民地を荒らしてまわる海賊団に加わった。メキシコのカンペチェの近くで彼の参加していた海賊船が難破した際、追い討ちをかけるようにスペイン軍の攻撃にあう。ほとんどの乗組員は殺されたが、ロロネーは、他人の血を自分自身に塗り、死体の間にまぎれこんで生き残ったという。スペイン人が出発したあと、彼は一部の奴隷の助けを借りて、トルトゥーガ島へと逃れた。カットラス(片手刀)を使うのを好んだ彼は、その後、その武芸と度胸で海賊団の首領にのし上がった。

彼と手下たちはハバナの町を人質にとって身代金をスペインの統治者に要求した。ハバナの総督はロロネーの一味を撃退するため軍艦を送ったが、ロロネーは逆にその艦を制圧し、1人を除き乗員を皆殺しにした。そして生き残った1人に、伝言をハバナに届けさせた。その伝言で、ロロネーは「今後スペイン人には何も与えることはない」と宣言したという。

1666年、ロロネーはマラカイボを制圧するために、8隻の艦隊と600から700人の手下と共にトルトゥーガ島を出航した。途中で、銀貨(2億4000万円ほど)を積んだスペインの輸送船に出会い、襲撃して積荷を奪った後、再びマラカイボへ向かった。港への入口は大砲のある砦に守られていたため、攻撃軍は防備の薄い陸伝いに接近して砦に攻め込み、守備隊のスペイン兵は激戦の末に一人のこらず戦死した。海賊団は市街を占領し、即座に退却できるように町の城壁を破壊してから略奪を始めた。陥落の際に多くの住民が資産を隠して逃げたため、海賊たちは富裕そうな者を捕まえると財産の所在を明かすまで拷問し、町のあちこちから悲鳴が聞こえたという。彼らは2週間にわたってマラカイボを収奪し、銀貨2万枚をはじめとする多くの略奪品を得た。

その後、ジブラルタル(ベネズエラ)の町を襲撃したロロネー一味は、500人のジブラルタル駐屯軍を全滅させて町を占拠した。身代金の支払いにもかかわらず海賊たちは市中の略奪を続け、多くの宝石、金銀、絹を分捕り、ジブラルタルは壊滅的な損害を受けた。このマカライボとジブラルタルの襲撃で一気に名を上げたロロネーは、スペイン人から「ロロネーに会う位なら死んだ方がマシ」とまで言われた。

ロロネーは非常に残忍で冷酷であり、捕虜にした敵は一人も生かさず全て殺し、襲った地域の住民には、虐殺、拷問、強姦など残虐行為の限りを尽くした。スペイン人を憎むあまり、自ら捕虜のスペイン兵の胸を切り裂き、心臓を引きだして食べたという。しかし、彼も彼の部下も、トルトゥーガ島では気前良く金をばら撒いたため、大変な人気者だった。

1668年、ロロネーの一団はニカラグア沿岸のプエルト・カベロという港町を襲撃したが守備隊に撃退された。その帰途で彼の船はパナマ沿岸の浅瀬で座礁し、食料を探しに内陸に入ったロロネーは人食いの風習のある原住民に捕まり、生きたまま手足を切り取られて火あぶりにされ、生涯を終えた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 増田義郎 『図説海賊』 河出書房新社2006年
  2. ^ デイヴィッド・コーディングリ 『図説海賊大全』 増田義郎、増田義郎・竹内和世訳、東洋書林2000年
  3. ^ 武光誠 『世界史に消えた海賊』 青春出版社2004年