トクト
トクト(托克托・脱脱、1314年 - 1355年)は元の宰相。漢名の字は大用。メルキト族の出身で、父はバヤンの弟であるマジャルダイ。
生涯
二十四史 |
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二十四史 |
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脱脱等『金史』 |
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趙爾巽等『清史稿』 |
その他 |
班固・劉珍・蔡邕等『東観漢記』 |
中華民國版『清史』 |
中華民國版『新清史』(未完) |
中華人民共和国版『清史』 |
世に出るまで
元朝では1328年に起こった天暦の内乱により、キプチャク軍閥のエル・テムルが実権を握り、トク・テムルが傀儡皇帝に立てられた。しかし、トク・テムルと次代のイリンジバルが夭折し、1333年にはエル・テムルが病没したため、次第にキプチャク軍閥は実権を失い、代わって力を付けてきたメルキト族のバヤンにより、同年に元朝最後の皇帝トゴン・テムル(順帝)が立てられた。
政権を奪う
トクトは初め伯父バヤンの養子となり、1338年に御史大夫に任じられた。しかしバヤンが専横を極めたため、1340年2月にトゴン・テムルと結びクーデターを起こし、バヤンを追放した。バヤンは左遷途中の翌年、病死する。
政治改革
1340年12月にはバヤンが廃した科挙が再開する。1341年、トクトの父マジャルタイが形式上の宰相となり、トクトが実権を握った[1]。10月にマジャルタイは職を辞し、トクトは中書右丞相となる。1341年には都総裁官に任ぜられ、1343年に『金史』を、1344年に『遼史』を、1345年に『宋史』を完成させる。
左遷と復帰
だが、1344年5月に父がトゴン・テムルによって甘粛に追放されると父親に従って辞職した。その5月、たまたま黄河が大規模な氾濫を起こすが、政変直後であり元朝は対策が遅れた。
父の死後にその冤罪が明らかになると、1349年には再び呼び戻され中書右丞相に復し、政権を授かった。トクトは早速、賈魯に黄河の大改修を命じ、民心を回復させようとした。1350年、トクトは新しい紙幣『至正交鈔』の発行も行っている。
紅巾の乱への対応
しかし、大規模な土木工事は、かえって民衆に不満を与えた。白蓮教主の韓山童はこの不満を煽り、紅巾の乱のきっかけを作った[1]。韓山童は処刑されるが、各地で蜂起が発生した。
1351年8月、蜂起した芝麻李らが徐州を奪うと、トクトは1352年9月、兵10数万を率いて徐州を攻め、芝麻李を戦死させ、彭大、趙均用を敗走させる[2]。
1354年に再び紅巾の乱の鎮圧のための遠征に向かう。ところが張士誠討伐中にトゴン・テムルの寵臣ハマ(哈麻)の讒言を受けて[2]追放され、やがて雲南に護送中に反対派に毒殺された。トクト追放により遠征軍は崩壊し、また実力者を失った元朝政府も収拾が付かない状態となった。7年後に反対派が失脚すると名誉回復がされた。