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チーム郷

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チーム郷(チームごう、Team Goh )は、日本のレーシングチーム。2004年アウディ・R8ル・マン24時間レースを制覇したことで知られる。チーム代表は郷和道

過去のレース成績

1996年

マクラーレン代表のロン・デニスとの共同プロジェクト「チーム ラーク・マクラーレンGTR」で、全日本GT選手権に参戦。マクラーレンF1GTRを2台体制で全6戦中優勝4回を挙げ、シリーズ1-2位でドライバーズおよびチームズチャンピオンのダブルタイトルを獲得。

1997年

ル・マン24時間レースに「チーム・ラーク・マクラーレン」としてマクラーレンF1GTR LMで参戦した。また、国際GT選手権シリーズの1つである鈴鹿1000kmに出場し、総合9位となった。

1999年

BMWワークスカーの供与を受け、「チーム郷」としてル・マン24時間レースに参戦。また、同年の鈴鹿1000kmでは総合8位、ル・マン富士1000KmにはBMW V12 LM、ダッジ・バイパーGTSの2台体制で参戦し、BMWは総合3位に入賞した。

2000年

テレビ朝日レーシング・プロジェクトとしてル・マン24時間レースに参戦。当初はトップカテゴリーのLMP900クラスに4台体制で出場する予定だったが、結局2台体制で出場し、6位入賞、8位完走を果たした。

2001年

デンマークのチーム・デン・ブラ・エイビス(Den Bla Avis )とのジョイント・プロジェクトにより、童夢S101でル・マン24時間レースに参戦。また、FIAスポーツカー選手権に参戦し、シリーズランキング2位でシーズンを終了した。

2002年

ル・マン24時間レースにアウディ・R8で参戦。総合7位にて完走。鈴鹿1000kmでは予選でポールを獲得するが、マシントラブルで決勝はリタイヤ。

2003年

ル・マン24時間レースにアウディ・R8で参戦。総合4位にて完走。FIAスポーツカー選手権スパ1000kmとル・マン1000kmにアウディ・R8で参戦し、両レースともに総合優勝。

この年はフォーミュラ・ニッポンへの参戦も予定され、同シリーズを統括する日本レースプロモーション(JRP)からはチーム郷からシーズン開幕前の参戦登録申請があったとの発表がなされたが(専用シャーシの発注も行われたという)、実際には参戦せずに終わった。

2004年

アウディ・R8でル・マン24時間レースに参戦。ドライバーは荒聖治トム・クリステンセンリナルド・カペロの3人で挑む。予選一日目は3位、予選二日目は4位と好調であった。荒聖治曰く「かなり良いセットアップができた」。決勝では悲願の優勝となった。荒は「日本人で2人目のル・マン総合優勝」という偉業を達成した。

2006年

2005年12月11日に開かれた「SUPER GT AWARDS 2005」において、SUPER GTを主催するGTアソシエイションの加治次郎事務局長から、2006年シーズンのシリーズ概要が発表された中で、チーム郷がGT500クラスに参戦することが表明された。会場では代表の郷和道監督のビデオレターが紹介された。

それによると、マシンはFIA-GT選手権の2005年シーズンで優勝しているマセラティ・MC12。ドライバーは荒聖治と、元F1ドライバーであるヤン・マグヌッセンのコンビとなる。タイヤはブリヂストン。チーム郷は3大ワークスに負けぬよう、プライベーターとしての意地を見せ「勝てるラインアップ」で参戦する、との意向を示した。チーム名は「スティーレコルセ」(STILE CORSE )を名乗る予定であった。

2006年に入り、イタリアバレルンガサーキットでテスト走行していることがテレビ東京系列で放送している『激走!GT』で公開された。ドライブした荒聖治は「車の印象としては、見た目がレーシングカーで、凄くサイズも大きくて迫力もある。あとは何といってもV12型エンジンのサウンドですね。その辺がこの車の良い所だと思う。」と高く評価していた。

その後、鈴鹿サーキットで行なわれた合同テストに参加したが、特認パーツ(カーボンブレーキ,FIA GT選手権車両より長いフロントスポイラーと幅広いリアウィング)を用いても、メーカーワークスとの戦闘力の差が大きいことが判明した。

チームは「メーカーワークスに追いつくには開発にあと3ヶ月以上必要」だとして、同年3月に鈴鹿サーキットで行われた開幕戦を欠場。以降のレースも欠場を続けたほか、ドライバーの荒聖治も同年の第5戦よりKONDO Racingからエリック・コマスの代役として参戦するなど、チームからの公式な発表はないまま、事実上参戦を断念した。

なお2006年より発足した全日本スポーツカー耐久選手権については、「SUPER GT参戦に集中したい」「年間3戦では、アウディを走らせるための経費が払えない」などの理由から、当面参戦を見送る考えを示し、結局同シリーズへの参戦も行われなかった。

2009年

自動車雑誌NAVI』(二玄社)とのタイアップで、5年ぶりにル・マン24時間レースに参戦することを発表。マシンはポルシェ・RSスパイダーを用いLMP2クラスにエントリーし、ドライバーはサッシャ・マーセン、荒聖治、国本京佑の3人を起用する。今回より郷和道はチーム代表に専念し、チーム監督はNAVI編集長の加藤哲也が務める。

2009年は決勝でLMP2クラスの2位を走る好走を見せていたが、レース残り1時間となったところで荒聖治のドライブ中に他の車が撒いたオイルに乗ってしまいクラッシュ、リタイアという結果に終わった[1]

郷代表は、当初インタビューで今回のプロジェクトは長期に渡る計画であり「最低でも4、5年になるのでは」「最初の2年を戦って体制を整え、レギュレーションが大きく変わる2011年に照準を合わせる」と語っていたが[2]、ル・マン終了後の同年8月にはマシンを売却してしまった。一説には「ヒューマントラブルに嫌気がさした」とも言われている[3]。さらに今回のチームの母体であった『NAVI』も売れ行き不振から2010年2月に休刊することが決まり、2010年以降も参戦を継続する可能性は事実上消滅した格好となっている。

外部リンク

脚注