タクロバン
タクロバン City of Tacloban Ciudad han Tacloban | |
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位置 | |
タクロバンの位置 | |
座標 : 北緯11度15分 東経125度00分 / 北緯11.250度 東経125.000度 | |
行政 | |
国 | フィリピン |
地方 | 東ヴィサヤ地方 |
州 | レイテ州 |
市 | タクロバン |
地理 | |
面積 | |
市域 | 201.72 km2 (77.9 mi2) |
人口 | |
人口 | (2007年現在) |
市域 | 217,199人 |
人口密度 | 1076.74人/km2(2788.7人/mi2) |
その他 | |
等時帯 | フィリピン標準時 (UTC+8) |
夏時間 | なし |
市外局番 | 63, 53 |
公式ウェブサイト : http://www.tacloban.gov.ph |
タクロバン(Tacloban、ワライ語:Syudad han Tacloban)はフィリピン中部、レイテ島北東部の海岸にある港湾都市。レイテ州の州都であり、東ヴィサヤ地方の中心都市かつ最大都市でもある。タクロバンは東ヴィサヤ地方全体の商業、観光、教育、文化、そして政治の中心であり、海外貿易や大型船の出入りが盛んな港町で、埠頭の西端にはカラフルな市場が広がっている。市街地はカンカバト湾(Cancabato Bay)およびサン・ファニーコ海峡に面し、隣のサマール島とはサン・ファニーコ橋で結ばれ、「湾のそばの美しい街(The Beautiful City By The Bay)」のニックネームを持つ。2000年の国勢調査では人口は178,639人、世帯数は34,758。バランガイ(集落)の数は138。
言語・教育
タクロバンの文化や言語は、この地方の中心都市であることを反映して多様である。タクロバン周辺の主要言語は東ヴィサヤ地方に広がるワライ語であるが、教育や商業や政治の場ではタガログ語が使われ、国際語として英語も通用する。またレイテ島北西部や南部で使われるセブアノ語も使われる。
タクロバンはスペイン植民地時代、典型的な植民都市の人口構成であり、純スペイン人やスペイン人と現地人との混血がほとんどを占めていた。現在もタクロバンの住民(Taclobanon)には、スペイン人と中国人の系統の混ざった人々が多い。
タクロバンの強みの一つは東ヴィサヤ地方でも随一の教育機関の集積があることである。フィリピン大学タクロバン校、東ヴィサヤ大学、ヴィサヤス・タクロバン・カレッジ、その他多くのミッション系大学や単科大学が集中しており、市内の学生の数は4万に達する。
交通
フィリピン航空が毎日最低1便をマニラからタクロバンの間で運航している。所要時間は1時間10分である。マニラからのフェリーは週3便あり、36時間をかけて運航している。レイテ島内の交通はバス、ジープニー、トライシクルが担っている。
歴史
タクロバンはかつてカンカバトク(Kankabatok)の名で呼ばれる集落であった。この名は最初にこの地に住んでいたカバトク(Kabatok)という部族の名から来ており、「カバトクの土地」の意味である。彼らは現在のサント・ニーニョ教会周辺に集落を構えていた。
16世紀の終わりにはカンカバトクはスペイン支配下に入り、サマール島のバセイ(Basey)の町の教区に属していた。1770年、聖アウグスチノ修道会の宣教師たちがこの地に入植したが、1813年にフランシスコ会が入れ替わった。このスペイン植民地支配の時期に、カンカバトクの町はタクロバンに名を変えている。この名は漁師がカニやエビ、魚を獲るのに使う竹製の漁具の「タクラブ」(Taklub)から来ており、この漁具を使う場所を意味する「タラクルバン」(Tarakluban)がタクロバンに変わったものである。
この地は台風が多いため古い文書は失われており、タクロバンがいつ町になったかは明らかではないが、一般にはタクロバンがムニシパル(町)を公的に宣言したのは1770年のことだと信じられている。1768年にはレイテとサマールは別の州(軍管区)になっており、両島が狭い海峡で接するという戦略的な位置からタクロバンが重視された。レイテ州の州都がタクロバンに移ったのは1830年のことである。これはタクロバンが理想的な港であること、十分な施設があったためである。タクロバンが市に昇格したのは1952年6月12日である。
1901年には米軍による支配が始まり、タクロバンの港は対外開放された。第二次世界大戦前にはタクロバンはすでにレイテ島の商業・教育の中心となっており、コプラやマニラ麻の輸出で栄えるようになっていた。
1942年5月25日に日本軍がタクロバンに上陸し、タクロバンの港を物資の集積地とし、都市を要塞化し滑走路を整備した。日本軍の占領下の時期、多くの住民がゲリラとなり抵抗を行っている。1944年10月20日の米軍によるレイテ湾上陸後、10月23日にダグラス・マッカーサーやフィリピン・コモンウェルス第2代大統領セルヒオ・オスメニャらはタクロバンの政庁前で式典を行い、フィリピン・コモンウェルスの臨時政府首都をタクロバンに置いた。当時マッカーサー将軍はジョゼフ・プライス邸とレドーニャ邸に司令部を置き、ここからフィリピン奪回を指揮した。
戦後、タクロバンは東ヴィサヤ地方の玄関口として、農業の集散地や軽工業の集積地として、日本や台湾、韓国などの外資が進出している。