スクリーミング・ロード・サッチ

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スクリーミング・ロード・サッチ(Screaming Lord Sutch、1940年11月10日 - 1999年6月16日)はイギリスの歌手・政治家。本名、デヴィット・エドワード・サッチ。ロンドン生まれ。労働者階級の出身であるが、後にイギリス連邦のDEED POLL制度により、ロード・デヴィット・サッチという貴族階級風の名前を公の場で名乗った。

経歴

ミュージシャンとしての活動

1950年代後半にアメリカのロックンロールの影響を受けて音楽活動を開始し、1960年頃にはスクリーミング・ロード・サッチ&ザ・サヴェイジズを結成した。自らの芸名はアメリカのR&B歌手スクリーミング・ジェイ・ホーキンスを基にしている。なお、ロードはイギリスの伯爵の呼び名であるが、普段シルクハットをトレードマークにしていたことから、同じくシルクハットを被っていた当時のコミック雑誌のキャラクター"LORD SNOOKY"をイメージして用いたといわれている。LORD SUTCH THE 5TH EARL OF HARROW(サッチ卿 第5代ハロー伯爵 ハローはロンドン近隣の地名)と名乗ることもあった(文献によっては3RD EARL~と名乗ったという記録もある)。

背中にかかる長髪をなびかせながら、ステージでは豹の毛皮を着て頭に二本の大きな角をつけた「ボルネオの獣人」や、シルクハットに黒マントをはおり医療カバンとナイフを持ちながら唄う「ジャック・ザ・リッパー」または「吸血鬼」の扮装で棺桶から登場するという、ホラー的演出で評判を呼んだ。

1961年EMIより「ティル・ザ・フォローイング・ナイト」でレコードデビュー(二本の角のあるモンスターが主人公のホラーロック)。プロデューサーはジョー・ミークが務めた。続く2枚目のシングルとして「ジャック・ザ・リッパー」(19世紀に実在したイギリスの正体不明の殺人鬼がテーマ)を発表。レコードプロモーションとしてコインを入れてレコードと映画フィルムが見られる「ビデオジュークボックス」が用いられた(フィルムはジャック・ザ・リッパーに扮したサッチが若い女性を襲うホラー映画のような内容であった)。

その後も「ドラキュラズ・ドーター」、「パープル・ピープル・イーター」(アメリカでヒットした曲(邦題「ロックを踊る宇宙人」)のカバー)、「モンスター・イン・ブラック・タイツ」(ヨーロッパでヒットした「ヴィーナス・イン・ブルージーンズ」のパロディ)など、ホラータッチのノヴェルティソングとでもいうべきシングル(いずれも題名はおどろおどろしいが軽快なロックンロール調の曲)を発表。レコードはさほどヒットしなかったものの、ビートルズデビュー前の時点で、イギリスで最も稼いでいたライブ・バンドとされている。オリジナル曲以外はロックンロールやR&Bスタンダードを演奏し、「アイム・ア・ホッグ・フォー・ユー」(リーバー&ストーラーの作品)、「ハニー・ハッシュ」(ジョー・ターナーのヒット曲)、「トレイン・ケプト・ローリング」(ジョニー・バーネットの曲で後に同時期のヤードバーズのカバー曲として有名)などのシングルも発表した。

サッチは自らをロックンロールを唄うヴォードビリアン(芸人)として位置づけており、ブリティッシュ・ビートからブルース・ロックへとイギリスのロックが変化する中でも、相変わらずロックンロールのみを演奏し続けるなど音楽的な評価は低いものであった。しかし、ステージ重視の観点から、バンドメンバーを選ぶ能力には優れており、著名なところではリッチー・ブラックモアディープ・パープル)、ジミー・ペイジレッド・ツェッペリン)、ジェフ・ベック(ヤードバーズ)、マシュー・フィッシャープロコル・ハルム)、ノエル・レディングエクスペリエンス)、ニッキー・ホプキンスなどがサヴェイジズのメンバーとしてステージに立っている。特にリッチー・ブラックモアはサッチからこの時にステージングやプロ意識を叩き込まれたといわれている。60年代にはレコードセールスは振るわなかったものの、有名になった元メンバーを集めて、1970年にアルバム「ロード・サッチ&ヘヴィ・フレンズ」を発表。ハードロック的な演奏に、サッチのボーカルがマッチしているとはいえず、収録曲もロックンロールの改作や、過去のデモテープを使ったものであったが、レッド・ツェッペリン結成直前のジミー・ペイジとジョン・ボーナムの参加や、ジェフ・ベックがギターを弾く曲が収録されたことで、スーパーセッション的なアルバムとして捉えられ、イギリスとアメリカでスマッシュ・ヒットとなった。この時のアルバムジャケットでは、ユニオンジャックにペイントされたロールス・ロイスとともに派手な貴族風衣装を着たサッチの写真が使われた。このアルバムジャケットのイメージにより、アメリカや日本ではサッチが本物の貴族階級出身者であるとの誤解を生むこととなった(イギリスでは当初よりジョークと認識されていたと思われる)。

このアルバムのヒットを受けて、1971年には同名義でライブアルバム「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」を発表。今回はリッチー・ブラックモア、ノエル・レディング、キース・ムーンザ・フー)が参加。サッチ本来の持ち味であるロックンロールのカバーが中心で、オリジナル曲を改作した演劇的な長尺の「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」を収録している。1972年にはイギリスのウェンブリースタジアムで開催されたロックンロールリバイバルショウに、60年代初期の人気シンガーのハインツ(元トーネイドスのベーシスト)とともにイギリス代表として出演した(アメリカからはビル・ヘイリーチャック・ベリーボ・ディドリーリトル・リチャードジェリー・リー・ルイスという伝説的なロックンローラーが出演)。前宣伝として、サッチは髪を緑色に染め、下着姿の女性陣とともにロンドンでパレードを行い警察沙汰となっている。ショウでは、同じく下着姿の女性に担がれた白い棺に入り葬送行進曲に乗って登場し、背丈ほどもある銀色のシルクハットを被り、デビュー曲の「ティル・ザ・フォローイング・ナイト」と「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」を披露した。サッチは当時、アメリカのロック・スターであるアリス・クーパーを、スタイルを真似たとして訴えていたが、スタジアムでの「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」演奏時に、ロサンジェルスから招いたという「アリス・クーパー」と言う名前のストリッパーを登場させ、舞台でストリップショウを演じさせている(記録映画「ロンドン・ロックンロール・ショウ」で見ることができる)。

80年代から90年代にかけても「ロック&ホラー」、「マーダー・イン・ザ・グレイブ・ヤード」、「ライブ・マニフェスト」などのアルバムや「ルーニー・ロック」「ロンドン・ロッカー」「ミッドナイト・マン」「ナンバー・テン・オア・バスト」などのシングルを発表。また60年代のシングル曲を集めたコンピレーションアルバムも90年代にイギリスEMIより発売されている。ライブ活動も継続していた(セックス・ピストルズのデビューライブはサッチの前座としてである)。

政治家としての活動

音楽活動と並行して、60年代にはナショナル・ティーンエイジ・パーティーを結成してイギリス国会議員に立候補した(結果は落選し供託金没収)。その後は、オフィシャル・モンスター・レイブン・ルーニー・パーティーを結成して、90年代後半まで継続的に、自身や党員を候補に立てて選挙に打って出るなど、ユニークな政治活動を展開した。公約は「10代の選挙権確立」「犬の登録制度廃止」「地方ラジオ局開設の規制緩和」などで、当初はまじめに捉えられなかったものの後年には実現した主張もある。ラジオ局の規制緩和の主張にあたり、海上のヨットで海賊放送局(パイレート・ラジオ、60年代にイギリスでは同様の放送局が多く存在した)の「ラジオ・サッチ」を開局して「チャタレイ夫人の恋人」の朗読を延々流したりもした。

また音楽活動も政治活動の一環ととらえており、前述のアルバム「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」でハロルド・ウィルソン首相を非難したり、後年にはマーガレット・サッチャー首相を非難して「アイム・ア・ホッグ・フォー・ユー」の歌詞を「アイム・ア・ホッグ・フォー・マギー」とかえて、豚のマスクを被り便座を首にかけながら歌う、というパフォーマンスも行っている。

サッチ自身は最後まで落選し続けていたものの、党員の中には地方議会の議員に当選した者もいる。イギリス国内において、60年代から90年代にかけて一貫して政党党首の座にありつづけた唯一の政治家でもある。

晩年

最愛の母親を亡くした90年代後半から、精神的な落ち込みを見せはじめ、供託金の引き上げも重なったことから、国政選挙への不参加を表明するなど、活動は停滞したといわれている。

そして不幸なことに1999年6月16日、自宅で首を吊り自ら命を断った。サッチの死については、イギリス国内で大きく報道され、多くの国民が彼の死を悲しんだ。現在もモンスター・レイブン・ルーニー・パーティーの創設者として同党の精神的シンボルとなっている。

その他エピソード

  • アルバム「ロード・サッチ&ヘヴィ・フレンズ」の製作時に、参加したジミー・ペイジには名前を出さないと事前に約束していたが、アルバムジャケットでの曲のクレジットをすべて「サッチ/ペイジ」としてしまい、ペイジを唖然とさせた。
  • 同アルバムでのジェフ・ベックの参加曲は過去にベックが参加したデモテープをマスタリングして無理やりベックのギターとニッキー・ホプキンスのピアノの音量を上げている(そのため微かにサックスの音が聞き取られる)。
  • アルバム「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」はライブアルバムとされているが、スタジオでの擬似ライブであるともいわれている(少なくとも効果音等のダビングが施されている)。
  • 90年代に出されたシングル曲のコンピレーションアルバムは、ブート盤対策としてEMIで発売されたものである。サッチが所有していた大物ミュージシャンと撮影した写真が多数ジャケットに掲載されているが、ジミ・ヘンドリックスとの写真は、演奏するジミの後ろにわずかに顔を出しているだけであり、エルヴィス・プレスリーとの写真も、単にサインをもらっているところを撮影しただけのものである。
  • 日本のレコードディレクター石坂敬一は「ロード・サッチっていうイギリスの大金持ちの貴族が作ったアルバム~」と発言しており、日本でもサッチが本当の貴族と思われている様子が窺える。
  • 1940年生まれで、ビートルズをはじめとするブリティッシュ・インベイジョンの世代とほぼ同じ世代に属するが、デビュー時期が早かったため、ビートルズ以前に主流であった「シンガー+バック・バンド」の形態をとった最後期のシンガーである。
  • DEED POLL制度はイギリスの改名制度であり、これによりLORD DAVID SUTCHを名乗っていた。LORDは本来「卿」と訳される伯爵の呼び名であるが、サッチの場合は名前の一部ということになる。そのため著作権表示や自伝の著者名、政党党首としての呼び名もLORD DAVID SUTCHであり、知らない者にとっては彼が本当の貴族なのではないかと思われる素地があった。
  • リッチー・ブラックモアがバンドに在籍していた頃のヨーロッパ公演ではロード・チェイサー・サッチ&ザ・ローマン・エンパイアと名乗り、騎士の格好をしている写真が残っている。
  • サヴェイジズの初代ドラマー、カルロ・リトル(芸名リトル・スラッシャー・カルロ)は、ザ・ローリング・ストーンズのメンバーに誘われていたが、ギグが多忙なため断ってチャーリー・ワッツを紹介した。また、ザ・フーに入る前のキース・ムーンにドラムの基礎を教えた張本人でもある。
  • 「ロード・サッチ&ヘヴィ・フレンズ」が、収録曲名をタイトルとして「スモーク・アンド・ファイアー」として90年代に再発されたときには、売り物は当然ジェフ・ベックとジミー・ペイジの競演であり、本来の主役であるサッチは、「デヴィット・サッチ」として単なる参加シンガーとしてクレジットされている。
  • 同様にウェンブリースタジアムのショウを記録した「ロンドン・ロックンロール・ショウ」のDVD再発盤の中にはハインツとともに出演シーンを全てカットされてしまっているものもある。
  • ビデオ版「ロンドン・ロックンロール・ショウ」では「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」が「ジャック・ザ・リッパー」としてクレジットされているが、両者は別の曲である。(ジャック・ザ・リッパーはアメリカ人の作曲者によるものである。後年、クレジット表記が混同されており、ロード・サッチ作曲とされている場合も見られる)
  • アルバム「ロック&ホラー」は、「ジャック・ザ・リッパー」の再録や「マーダー・イン・ザ・グレイブ・ヤード」といったオリジナル曲のほか、ロックンロールスタンダードをホラータッチに改作した曲を多数収録している。(「モンスターロック」という曲はスタンダード曲「マンボロック」の歌詞の「マンボ」を「モンスター」に変えただけのもの)