ジェラルド・ブル
ジェラルド・ヴィンセント・ブル(Gerald Vincent Bull、1928年3月9日 - 1990年3月22日)はカナダ人の科学者。
概要
オンタリオ州ノースベイの出身。最初は薬学を学んでいたが後に工学に転向。1951年、トロント大学で史上最年少で博士号を獲得する(この記録は現在も破られていない)。
弾道学の権威で、ハープ計画(HARP High Altitude Research Project)に参加、スペースリサーチコーポレーション(SRC)を設立して多くの火砲(→大砲)の開発に関わった。実際のマスドライバー開発も視野に入れていたことでも知られる。
彼は中華人民共和国の兵器開発やイラクのバビロン計画に深く関与したが、1990年3月22日、ベルギーブリュッセルの自宅扉前で背後から5発の銃弾を受け殺害されているのが発見された。犯人は特定されておらず、欧米ではMI6やモサッド、イランの諜報機関による暗殺の可能性があると報道されている。
関係した計画
ハープ計画
カナダ兵器研究開発所(CARDE後のDRDC)の責任者を務め、1961年にアメリカ国防省とカナダ国防省の共同で開始されたロケットよりも安価な人工衛星打ち上げ手段を模索するためのハープ計画(HARP High Altitude Research Project)に参加した。戦艦用の16インチ(40.6cm)砲の内部の旋条を削り42.4cm滑腔砲としたものを2門結合させた砲が3門建造され、ケベック、バルバドスで発射実験が行われた。「マートリット2」では重量82kgの砲弾を高度180kmの高さ、すなわち宇宙空間にまで打ち上げることに成功している[1]。この計画は1968年に中止された。
スペースリサーチコーポレーション
ハープ計画が中止される前年の1967年、スペースリサーチコーポレーション(SRC)をカナダのケベックに設立し、火砲の設計を請け負った。SRCが開発した長距離射程のGC45 155mm榴弾砲は、改良型のGHN-45として世界各国に輸出された。SRCの最初の成功は1973年にイスラエルとアメリカを相手にした武器の販売であり、バリー・ゴールドウォーターらの後押しでアメリカ議会から市民権が与えられた[2]。また、SRCは南アフリカのアームスコー社と共同でG5 155mm榴弾砲を開発した。しかし、南アフリカは当時アパルトヘイトに対する制裁を受けており、この行為は違法とされ1980年、禁固刑に処せられた。
バビロン計画
釈放後はカナダを離れ、ベルギーのブリュッセルに活動の拠点を移した。
イラン・イラク戦争中の1988年、ブルはサッダーム・フセイン大統領とイラクへの技術提供、自走砲[3]の開発、口径1mの大砲の開発契約を交わした。大砲の開発は「バビロン計画」と呼ばれ、全長45m、口径350mmの砲が実験用に建造された。
湾岸戦争終了後の1991年8月、イラクの武装解除に当たっていた国連の査察官によりこの大砲が発見され、バビロン計画が明らかなものとなった。計画では全長150m、口径1mの砲が2門建設されるはずであったが、ヨーロッパから輸出された部品の差し押さえとブルの暗殺により完成できず、この査察ですべて破棄された。
脚注
- ^ 大久保義信「徹底分析戦争映画100!」(2003)
- ^ Tina, Starr (October 2009). "Life and Work at Space Research". Vermont's Northland Journal 8 (7): 7
- ^ アル・マジヌーン155mm自走榴弾砲とアル・ファオ210mm自走榴弾砲。1989年にバグダードで公開されたが、湾岸戦争では配備されていなかった。
関連項目
- スーパーガン
- 多薬室砲
- 戦略防衛構想
- マッドサイエンティスト
- ゴルゴ13:第364話「アム・シャラーの砲身」では、彼をモデルとした人物が登場する。この話では、彼の信奉者の日本人が計画したスーパーガンの軍事転用に反対したために信奉者に殺害されたことになっている(単行本122巻収録)。
- ブラック・プロジェクト「アメリカを震撼させた男」 - ブル博士の暗殺事件を基に1994年に制作された映画(監督:ロバート・ヤング、原題:Doomsday Gun)。日本未公開、ビデオのみ発売。
- フレデリック・フォーサイス『神の拳』