カステランマレーゼ戦争
カステランマレーゼ戦争(The Castellammarese War 1929年-1931年)とはアメリカの禁酒法時代にニューヨーク州ニューヨーク市で発生したイタリア系マフィアの抗争事件のことである。当時、ニューヨークを支配していた2つのファミリーのボスであるジョー・マッセリアとサルヴァトーレ・マランツァーノがニューヨークの支配権を巡り争った。両陣営で500人以上の死者を出したという資料もある。
抗争はマランツァーノ側の勝利で終わり、彼は「ボスの中のボス(イタリア語でcapo di tutti capiと呼ばれる) 」の座に着いた。 彼の死後、「ボスの中のボス」という地位は廃止され、ニューヨークのマフィアは5つのファミリーに分割された。また、コミッション(全国委員会)と呼ばれるボス同士が話し合いをする為の会議が設けられた。
この戦争の名前はシチリア西部の町カステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身のマフィア構成員らが多く参加していた事に由来する。彼らはシチリア・マフィアの大ボスであるドン・ヴィト・カッシオ・フェッロの指令によりアメリカに移民してきた。
マッセリア派とマランツァーノ派
このカステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身のマフィア達はカステランマレーゼ(Castelammarese)と呼ばれ、1925年、彼らのリーダーとしてまたドン・ヴィトによるアメリカ暗黒街を支配するという野望により、サルヴァトーレ・マランツァーノがシチリアから送られてきた。マランツァーノはブルックリン区に本拠を置き、彼の手下にはジョセフ・ボナンノ、ステファノ・マガディーノ、ジョゼフ・プロファチ、ジョー・アイエロが含まれていた。
もう一つの勢力はジョー・マッセリアを頂点としてシチリア及びイタリア南部のカラブリア州・カンパニア州から集まった集団であり、主にナポリ出身のギャング達で構成されていた。 マッセリア派にはアル・カポネ、ラッキー・ルチアーノ、アルバート・アナスタシア、ヴィト・ジェノヴェーゼ、アルフレッド・ミネオ(別名アルフレド・マンフレディ)、ウィリー・モレッティ、ジョー・アドニスとフランク・コステロらが含まれていた。
表面的には、この戦争はマッセリア派とマランツァーノ派のニューヨークにおける覇権争いであった。だが、実際には「口ひげピート」と呼ばれた伝統を重んじる保守的なマフィア達とイタリアの各地域から集まった若い世代のマフィア達との対立だった。
1928年までにはしばしばお互いの密造酒を運ぶトラックをハイジャックする状態となり、マッセリアとマランツァーノの対立は次第に明白なものとなっていった。(アルコールの生産は当時のアメリカでは禁酒法により違法であった。)
マッセリア派とマランツァーノ派の対立に加えて新旧派の対立も内包していたせいか、2派の争いは非常に不安定な状態にあり、戦争の間、多くのギャング達は敵対する側に鞍替えし、または仲間を殺害していた。
ファースト・ショット
この戦争がいつ始まったかについては見極めるのは難しい。1930年2月、推測であるが、ジョー・マッセリアはマランツァーノ派の一員である政治団体ユニオン・シシリオーネのデトロイト支部長だったガスパー・ミラッツォの殺害を命じた。今日伝えられるところによれば、マッセリアはアル・カポネのアウトフィットと関係を結んでいたユニオン・シシリオーネに所属していたミラッツォをマッセリア側に加えようとしたが、協力を拒絶され恥辱を味わされていた。 しかし、多くの資料によると、この戦争はマッセリア派内部において戦端を切られた。1930年2月26日に、マッセリア派の一員だったラッキー・ルチアーノは同じマッセリア派のガエターノ・レイナの暗殺を命令された(彼の娘の名はカーメラといい、2年後にジョゼフ・ヴァラキと結婚した。多くの歴史書は彼女の名前をミルドレットというニックネームで記しているか、またはミリーもしくは他の名前と記しているが、彼女の本当の名前は彼女の死後まで不明だった)。
ルチアーノは、彼が極秘で手を結んでいたトミー・ガリアーノ、トミー・ルッケーゼそしてドミニク・ペトリッリ(別名"The Gap)らを守る為というのも兼ねてレイナを殺した。だが、この粛清はレイナ・ファミリーがマランツァーノ側に鞍替えしたことにより、マッセリアとルチアーノにとっては不味い結果となった。
応酬
1930年8月15日、マランツァーノ派はマッセリア派の重鎮であり殺し屋のピエトロ・モレロをイースト・ハーレムにある彼の事務所にて暗殺した(たまたま訪問していたジュゼッペ・パリアーノも巻き添えをくらい死亡。)。2週間後、ジョー・マッセリアにとってさらに苦い事態が起きた。レイナ殺害後、マッセリアは製氷業者への恐喝業を引き継ぐ為に、ジョゼフ・ピンツォーロに任せた。だが、1930年9月9日、ルッケーゼが借りていたタイムズスクエアのオフィスにて、レイナ・ファミリーの手により彼は射殺された。これら2つの事件の後、レイナ・ファミリーは正式にマランツァーノ派と手を結ぶことになった。
マッセリアはすぐさま反撃に転じた。1930年10月23日、マランツァーノ派でシカゴ・ユニオーネ・シシリアーネの代表だったジョー・アイエロをシカゴで暗殺。この時点では、この暗殺はマランツァーノ派とカポネとのシカゴにおける激しい権力争いの一部だったと思われていた。だが、ルチアーノが後に認めたことによると、マッセリアがアイエロの殺害を指令し、そしてマッセリア派のアルフレッド・ミネオにより暗殺は実行されていた。
終結へ
アイエロ暗殺後、抗争は急速にマランツァーノ派が優勢となっていった。1930年11月5日、マッセリア派のアルフレッド・ミネオそしてマッセリア派の重要なメンバーだったスティーブ・フェリーニョが暗殺された。この時点より、マッセリア派のギャング達はマランツァーノ派に鞍替えし始めていった。そして、本来の対立の原点だったカステランマレーゼ側対非カステランマレーゼという構図が意味を成さなくなっていった。 1931年2月3日、マッセリア派幹部であり重要人物だったジョゼフ・カターニャが銃撃され、2日後に死亡した。
状況が悪化していく一方だったマッセリア派のルチアーノとジェノヴェーゼはカステランマレーゼのリーダーであるマランツァーノと連絡を取り始めた。2人はマランツァーノに「戦争を終わらせる」との条件を付けてマッセリアを裏切ることに同意した。
1931年4月15日、ブルックリン区コニーアイランドにあるレストラン「ヌォヴァ・ヴィラ・タマッロ」にて夕食をとっていたジョー・マッセリアは最期を迎えた。暗殺はアルバート・アナスタシア、ジョー・アドニス、ヴィト・ジェノヴェーゼ、そしてベンジャミン・シーゲルにより実行された。彼らの逃走用の車はチロ・テッラノーヴァが運転した。
組織の新構築
マッセリア派のボス、ジョー・マッセリアの死によりカステランマレーゼ戦争は終結を迎えた。勝者となったのはサルヴァトーレ・マランツァーノと彼の率いた伝統的なカステランマレーゼ達であった。そして、マランツァーノは、ギャング同士の血生臭く不毛な抗争を回避する為の、いくつかの重要な措置をとった。この時期に行われた改革のほとんどは今もなお継続している。
まず、ニューヨーク市を除いた北東部と中西部にある各都市部では、ー都市につき一つのファミリーが置かれる事となった。そして、ニューヨーク市はその人口の多さそしてギャングの多さも考慮されて5つのファミリーが置かれることになった。
ニューヨークの5つのファミリーはラッキー・ルチアーノ、ジョゼフ・プロファチ、ガエタノ・ガリアーノ、ジョゼフ・ボナンノ、ヴィンセント・マンガーノらがボスとなることとなった。 カステランマレーゼはプロファチやボナンノらが個々にファミリーを持つことにより、一つの派閥としての存在では無くなった。
そして、カステランマレーゼを率いてきたリーダーであるマランツァーノは、自らを「ボスの中のボス(capo di tutti capi)という地位に任命し、全米の犯罪組織を統括する存在とした。
それぞれのファミリーは1人のボスによって率いられることになり、そして、ボスを補佐する役目として副ボス(underboss)が付けられた。(後に、第3のポジションとして相談役(consigliere)が設置された。)
副ボスの下、ファミリーはクルーごとに分けられ、クルーはカポまたはカポレジームと呼ばれるキャプテンに指揮され、その下にソルジャーと呼ぶスタッフが配置された。また、ソルジャー達の下にファミリーに協力する非ソルジャーを置いた。(のちに彼ら非ソルジャー達はワイズ・ガイ(wise guys)として知られるようになった。)
また、ワイズ・ガイと呼ばれる者たちの中にはイタリア系ではない者達も含まれていたであろう。
マランツァーノの死
「ボスの中のボス」となったマランツァーノであったが、彼の支配は短期間で終わりを迎える事となった。
1931年9月10日、マランツァーノはマンハッタン区にある自分のオフィスに居るところをマイヤー・ランスキーとルチアーノの信頼の厚いサミュエル・レヴァインらユダヤ系の殺し屋達により銃とナイフで殺害された。その結果、カステランマレーゼ戦争は、戦いに敗れた旧マッセリア派が最終的な勝利を収める形となった。
ラッキー・ルチアーノら勝利を手に入れた若く冷酷なギャング達は、保守的な「口ひげピート」達を排除した。その後、彼らの勢力が増していくと共に、組織犯罪は民族的な垣根を越えた本格的な組織へと成長していった。