アパッチプロレス軍

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アパッチプロレス軍(アパッチプロレスぐん)は、かつて存在した日本プロレス団体。アパッチの前身団体であるWEW(ダブリュー・イー・ダブリュー、ワールド・エンターテイメント・レスリング)、冬木軍プロモーション(ふゆきぐんプロモーション)についても記述している。

歴史

WEW

2002年3月、冬木弘道が設立。冬木は「荒井(元FMW代表取締役社長)の構想のなかにあったWEWの名での新団体設立を形にした」とコメント。5月5日川崎球場で旗揚げ戦を開催。

2003年3月19日、冬木が死去。

冬木軍プロモーション

3月、冬木の妻が設立。7月7日後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。

2004年5月5日、川崎球場大会を最後に解散。

第1次アパッチプロレス軍

7月、金村キンタローが設立。8月30日後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。

2007年12月、所属選手と上層部の意見が対立して後楽園ホール大会の発表とチケット発売が大幅に遅れてしまい後楽園ホールから撤退せざるを得なくなる。

2008年2月18日、金村が参戦していた大日本プロレスの女性スタッフに猥褻行為を行っていた事件が公に発覚(詳しくは「金村キンタローによる事件」を参照)。話し合いの結果、2月22日新木場1stRING大会をもって金村の無期限出場禁止(後に懲戒解雇処分)並びにアパッチの無期限活動自粛を発表。活動休止の間、4月17日黒田哲広5月16日佐々木貴が自主興行を開催したが金村を擁護した折原昌夫が参戦していたため批判を浴びた。12月、運営会社「CF企画」が撤退したため年内の活動停止が発表されたが佐々木を中心とした新体制の下で活動を継続していくことを発表。

2009年1月16日、新体制の下で新木場1stRING大会を開催。5月22日、新木場1stRING大会の全試合終了後に金村がリングへ乱入して試合会場が混乱状態となる。これは全くアングルもなかったため不審者として試合会場からつまみ出される。また同興行に金村と共に佐藤耕平橋本友彦が観戦していた。後に佐藤は所属しているプロレスリングZERO1から厳重注意されて謝罪コメントを出して橋本は週刊プロレスモバイルで金村と佐藤とは偶然居合わせたとコメントして謝罪。6月14日小幡優作が退団。6月26日、新木場1stRING大会の試合開始直前に記者会見を行って「アパッチ」という名前を使うことが困難なため解散することを発表。8月8日一関市総合体育館サブアリーナ大会を最後に解散。元所属選手の佐々木、GENTARO葛西純ジ・ウィンガープロレスリングFREEDOMSを設立(怪我で療養中のマンモス佐々木は入団を保留したが後に入団)、黒田、BADBOY非道はフリーに転向などとなった。

第2次アパッチプロレス軍

2010年10月、金村は自身が設立したXWFを母体としてアパッチを復活させることを発表。12月17日新木場1stRINGで再旗揚げ戦を開催。

2011年5月21日力丸がデビュー。6月、力丸が練習中に意識不明となり病院に搬送されて急性硬膜下血腫と診断。7月13日、病院で力丸が肺動脈血栓塞症のため死去。

2012年12月22日西村賢吾(現:拳剛)が所属選手全員の契約書を盗む行為を起こし、12月25日に無期限出場停止処分が発表される(ストーリー上)。

2013年3月30日西調布格闘技アリーナを最後に長らく興行は開催されておらず3月限りで公式モバイルサイトは終了して4月29日限りでパソコン版公式サイトも更新停止。7月14日、約3ヶ月ぶりの興行を若獅子会館で開催。

2016年9月29日、記者会見を行ってアパッチを設立した金村の年内引退(引退試合は12月27日後楽園ホールで開催される「金村キンタロー引退興行」)により解散することを発表。12月25日、新木場1stRING大会を最後に解散。今後は引退する金村とフリーに転向する黒田を除く元所属選手はAチーム(仮称、現:プロレスリングA-TEAM)を設立して活動することを発表[1]

タイトル

所属選手

スタッフ

レフェリー

リングアナウンサー

ゼネラルマネージャー

過去の所属選手

過去のスタッフ

WEW時代のタイトル

WEW時代の所属選手

冬木軍プロモーション時代の所属選手

脚注