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95か条の論題

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95ヶ条の論題
プロテスタント宗教改革
迫害の歴史
神権政治
宗教改革の始まり
宗教改革者
各国の宗教改革

95ヶ条の論題:提題とも(正式名称:"Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum"(『贖宥状の意義と効果に関する見解』))は、1517年マルティン・ルターが当時のカトリック教会の免償理解に疑義を呈して発表した文章:提題(テーゼ)。ルター自身はあくまでも神学上の論争と考えていたことから、当時の民衆にはほとんど読めなかったラテン語で書かれている。

ドイツにおける贖宥状の大量販売にはドイツ諸侯の思惑もからんでいたため、ルターのテーゼがもたらした議論は単なる神学論争から一大政治論争へと発展、「プロテスタント」と呼ばれる新しいキリスト教グループを生み出すことになった。宗教改革の幕開けの事件とみなされる。

目的と経緯

ヴィッテンベルクの教会は、当時ヨーロッパで最も豊富な聖遺物コレクションがあった。それらはザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)が収集したものだった。当時、聖遺物に対する崇敬は盛んで、見るだけで免償(罪の償いの義務を軽減すること)が得られたり、煉獄での清めの期間を短くできると信じられていた。ルターの研究書を書いているマルティン・トロイ(Martin Treu)によれば、選帝侯は1509年ごろ、「すでに5005もの聖遺物を収集していた。その中には聖母マリアの母乳入りの瓶、イエスの生まれた飼い葉おけのわら、ヘロデ大王による幼児虐殺の被害者の完全な遺骨などがあった。このような遺物は通常、手の込んだ銀細工が施された保管容器に収められ、年一度公開されて参拝者を集めていた」という。1520年、選帝侯の聖遺物コレクションの数は19013にも達したという。人々は免償を得ようとこぞってヴィッテンベルクの教会を訪れ、その齎す功徳の総計は「人々が煉獄に入る期間を合計にして19万年も減らす」(トロイ)ほどのものだったという。

ヴィッテンベルクの教会の扉に論題が張られたのにはこのような経緯があったが、ルターが当時の教会の贖宥理解に疑問を抱いたのには、贖宥状販売で有名だったドミニコ会ヨハン・テッツェルの存在が大きかった。テッツェルは教皇レオ10世マインツ大司教アルブレヒトのお墨付きを得て贖宥状を売り歩いていた。聖遺物展示による贖宥状売り上げが落ちることをおそれたフリードリヒ賢公と資産の流出を嫌ったザクセン公ゲオルクの命により、領内での贖宥状の販売は禁止されていたが、人々はわざわざ他領へ赴いてテッツェルの贖宥状を求めるほどの人気ぶりだった。ルターのもとに告白に来る信徒たちも誇らしげに贖宥状を示し、自分にはもう罪の償いは必要ないと言い切るのを見てルターは複雑な気持ちになった。

提示方法

通説では、ルターは95ヶ条の論題を1517年10月31日にヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に提示したとされ、この日が宗教改革記念日となっている。これに対して研究者の一部には、当時の記録に記述がないという理由で通説を疑問視する者もいる。通説擁護派からは、「当時の大学では、何か意見がある時は聖堂の扉に掲示するのが一般的だった(現代で言えば「掲示板」)ので、当たり前すぎて記録に残していないのだ」という反論がされている。

更に論題が各地で急速に話題になったことから、ルターが論題を掲示するだけでなく各地に送付したという説もある。この説は研究者の中でも否定する声が少ない。というのも、たとえばマインツ大司教、教皇、ルターの友人たち、各地の大学などに送られたと考えるのは至極妥当なことだからである。1518年に入ると、論題はドイツ語等に翻訳された印刷物となって急速にヨーロッパ全土に広がった。

関連項目

外部リンク