95か条の論題
95か条の論題(95かじょうのろんだい、ドイツ語: 95 Thesen)は、1517年10月31日にマルティン・ルターが発表したとされる文書である。
一般的には、ルターがこの文書をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだしたのが宗教改革の発端になったとされており、カトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を批判したものだとされている。内容は序文と95か条の提題(テーゼン)から構成されており、本来はラテン語で書かれていた。すぐに活版印刷によるドイツ語訳版がつくられて印刷され、ドイツ中に知れ渡ったとするのが定説である。
概要[編集]
「95か条の論題」は、中近世のヨーロッパ史における重大事件である宗教改革の契機になった文書として知られている。この文書はマルティン・ルターが1517年10月31日に、自身が神学教授を務めているヴィッテンベルクの教会の門に貼りだしたとされている。文書は主に贖宥状の販売を糾弾する内容になっていたとされているが、実際にはラテン語で書かれているために、一般市民には全く内容はわからないものだった。
通説では、ルターがこの掲示によって教会を批難したのは勇気ある大胆な行動であり、すぐさまドイツ語に印刷されて出回り、ドイツ中に大きな論争を巻き起こしたと説明される。しかし歴史家たちは、ルターがやったことは当時の学術界における所定の手続きに則って討論会の告知を行っただけであったと指摘している。この時点では、ルター自身も一般庶民に大きな影響を及ぼすことになるとは考えていなかっただろうというのが現代の学術界の定説である。しかも、「門扉に文書を貼った」という伝承が歴史的事実であるかどうかも結論が出ていない。
にも関わらず、この文書が、突如として宗教改革を引き起こし、カトリックとプロテスタントを分裂させた端緒になったというイメージは、今も一般的である。10月31日は宗教改革記念日(Reformationstag)となっており、ドイツのプロテスタント地方では休日になっている。
通説による簡単な経緯と評価[編集]
ルターが投げた雷がおちた。ドイツ人すべてが動きだした。 — フリードリヒ・エンゲルス、[1]
一般的に、世界史の教科書では、「宗教改革」は1517年にマルティン・ルターが「95か条の論題」をヴィッテンベルクの城教会の門に貼りだすことで始まった、とされている[2][注 1]。そしてその背景として、中世以来のカトリック教会の腐敗があり、贖宥状の販売が引き金になったと説明される[2]。往々にして、このルターの行為は、一介の聖職者の身でありながら教会の組織と権威に敢然と挑戦した雄渾な行動であったとして描かれる[3]。
この「ルターによる教会批判」は瞬く間にドイツ中の知るところとなり[4]、大きな論争を巻き起こし[5]、1560年頃のカトリックとプロテスタントの分裂や、イングランド国教会の独立をもたらしたとされる[2]。すなわち、「宗教改革」は1517年に始まり、1560年頃に終わった、とするのが世界史の教科書における一般的な解説である[2]。
ルターが95か条の論題を掲示した日時は、1517年10月31日の夜中とされている[6] [注 2]。翌11月1日はカトリック教会の万聖節という祝日であると共に、ヴィッテンベルク城教会の献堂記念日でもあった[6]。
歴史学上の評価[編集]
しかしながら現代の歴史家や宗教史家は、こうした通説は宗教改革にまつわる「神話」であり、後世に作られた見方ではないかと指摘している[8]。この指摘によれば、「宗教改革」という用語が使われるようになったのは17世紀以降のことである[8]。この術語を用いたドイツの政治家ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ(1626 - 1692)は、「ルターの教会批判」「ルターの宗教改革」などと表現し、あくまでもルター個人の行動の範囲に限定する用語として用いた[8]。95ヶ条の論題によって始まったのは「ドイツの」宗教改革だとする文献もある[9]。
この不確かな出来事の本当の意義は、16世紀もずっと後になって、「宗教改革」はこのように始まったのだという神話が創造されたという点にある。 — R.W.スクリブナー・C.スコット・ディクスン、『ドイツ宗教改革』p1「宗教改革神話」[8]
ドイツ史研究家の松田智雄は、『世界の名著23 ルター』(中央公論社)のなかで、「どの面から言っても、これが世界史の新しい時期を開くような、はなばなしい開幕でなかったことだけは確かである」と評している[10]。実際にはルター以外にも宗教改革家は大勢いて、ルターと同時代の人々は「改革」の総てをルターに帰すようには考えていなかった[8]。改革は多元的に発生しており、多くの人物や都市が関わっていた[8]。
教会史家のベルント・メラー(1931 - )は、ルターを「偉大な賢人」「宗教改革の指導者」と描写する「よくある記述」は、完全に作り上げられたものであると批判した[8]。この見解は多くの歴史家に支持されている[8]。しかしながら「ルター生誕500周年」を迎えた1983年には、ルターを「歴史上の英雄の一人」「宗教改革を一人で成し遂げた人物」と扱う見方が依然として広汎に存在していることが実証されてしまった[8]。
文書の内容について[編集]
多くの研究者は、この文書の具体的な中身については詳しく述べていない。ドイツの歴史家でルターの伝記を書いたリヒャルト・フリーデンタール(Richard Friedenthal)によれば、95か条は全体として「教理でも、体系でもなく、また、そのようなものではありえなかった」。これは議論をするためのメモ書き程度のものであり、「多くの提題はほとんど独り言」のようなものだった。ところによっては標語のようなものであったり、形になっていないものもあった[11]。
ルターは、多くの民衆が言っていたことを1枚の紙にとりまとめただけであり、その最初と最後にルターの名前があるという以外に、文書全体を貫く思想といえるほどのものは無かった。しかしそのことがかえって、多くの階層の様々な人物に、自由な解釈を可能にしたとも考えられている。与えた影響として重要だったのは、論題の中身というよりは、ルターの意図には反していたかもしれないが、教会に対する批判を公言してもよいのだ、ということだった[12]。後述するように問題が大きくなっていった頃には、既にこの文書の中身や文言が問題ではなくなっており、ルターの当初の意図とは全くかけはなれた状況となっていったのである[3]。
これとは異なる見解を示す者もいる。松田智雄によれば、「論旨は純粋に教義の問題としてとりあげられ、論じられている」。中には現実的な提題も含まれているものの、全体としては教会法や教義を論じたもので、とくに「許し」は教会法や贖宥状では得られるものではなく神の意志によるものだ、という考えが貫かれているとしている[10]。『宗教改革小史』の著者K.G.アッポルドは、「贖宥の商業化を真正面から攻撃」するものだった、としている[13]。
しかしルターは、この「95ヶ条の論題」の中では、贖宥状そのものを完全否定したわけではなく、一定の範囲では肯定している。贖宥状を購入して贖宥を受けられる事自体は認めているし、教皇を批判しているわけでもない。その贖宥が適用できる範囲が限定的であることを確認しているだけである[13]。「95ヶ条の論題」で書かれた内容は、のちにルター自身が考えを変えたものも少なくない。たとえば「95ヶ条の論題」では煉獄そのものは否定されておらず、贖宥状の効果が煉獄までは及ばないとしているだけであるが、後にルターは煉獄そのものの存在を否定するようになった[13]。ルターの著作のうち、内容面で宗教改革運動の理論に影響をあたえたのは、のちに著した「宗教改革三大論文」と呼ばれる『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える』『教会のバビロン捕囚について』『キリスト者の自由』である[14]。
「掲示」の意味と意義[編集]
AMORE ET STUDIO ELUCIDANDAE veritatis haec subscripta disputabuntur Vuittenbergae, Praesidente |
(『世界の歴史12ルネサンス』による日本語訳(大意)) 真理に対する愛から、 私は以下の箇条について |
教会の門扉に掲示を行うのはよくあることだった[編集]
城教会の門扉。「テーゼンの扉」と呼ばれている。当時は木造だったが、実物は教会とともに戦禍で焼失したため、現在は扉を模した青銅板が貼られている[16]。
1517年のニュルンベルク版。この写しは1891年にロンドンの古書店で発見され、現在はベルリン州立図書館に収蔵されている[17]。
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ルターがヴィッテンベルクの城教会の門扉に「95か条の論題」を貼りだしたのは1517年10月31日の夜中である[6]。翌11月1日はカトリック教会の万聖節と城教会の献堂記念日とにあたっており、この貼り紙は祭りに集まる人々の目に留まることになる[6]。
このように、公の場で、壁新聞のように多くの人の目に触れるようなやり方で教会を告発してみせたというのは、現代の読者には果敢な行動であるという印象を与える[3]。しかし実際には、これは当時としては極めて一般的な出来事だった[3]。
当時のヴィッテンベルクの人口は2000人程度である[15]。人口規模は大きくないが、ザクセン選帝侯の本城であると共に、1502年に開設されたばかりのヴィッテンベルク大学があった[15]。町の西端にある選帝侯の居城に隣接して城教会があり[15]、その門は日常的に大学の掲示板として利用されていた[3]。
ヴィッテンベルク大学の神学博士だったルターが掲示した文書は、全編にわたってラテン語で書かれており[6]、一般市民には読めないものであった[15]。つまり、ルターはこの文書を以って一般市民に問題提起しようという意図は全く無かった[6]。
掲示板にこうした文書を貼りだすのは、当時の神学者が公開討論を申し入れる際の所定の手続きであり[3]、その決め事に沿った定型的な行動に過ぎない[15]。こうした公開討論は、当時の神学者が修練の一環として日常的に行っていたもので、特別なものではない[3]。討論を行いたい者は、議論のテーマをラテン語でまとめ、討論の希望日時や場所を明記して掲示板に貼るというのが、決められた手順だった[3]。
そしてこの手順では、討論を申し入れた者は、掲出したのと同じ文書を聖職者としての上司・関係者に対して送付する義務がある[3]。写しを複数必要とするがゆえに、この文書は当時普及し始めたばかりの活字を用いて紙に印刷されたものだった[15][注 3]。ルターは手順にしたがって、この文書を当時のドイツの首座司教であるマインツ大司教にも送っている[5]。
ところが当時のマインツ大司教アルブレヒトこそ、ローマ教皇やフッガー家と結託し、問題となっている贖宥状を売って利益をあげている張本人だった[6]。これは偶然であり[3]、ルター本人も自分が批判しようとしている贖宥状の利益がマインツ大司教アルブレヒトの懐に入る仕組みになっているとは知らないままに文書を送付したと考えられている[15]。ルターはマインツ大司教にこの文書を送るにあたり、「私の最良の父、私の牧者」と呼びかけている[18]。これについて、19世紀のイギリス女王ヴィクトリアが「アルブレヒトはさぞや面白くないことだったであろう」と評したと伝わっている[3]。
宗教界は当初、あまり問題視しなかった[編集]
ルターが95か条の論題を貼りだしたのは、多くの一般市民に教会の不正を周知する目的ではなく、学問的な討論を呼びかけたに過ぎなかった[6]。ルターはアウグスティヌス修道会に属しており、ルターが討論を呼びかけた相手方はドミニコ修道会だった[3]。ドミニコ修道会こそ、贖宥状の販売を請け負ってドイツ中で売りさばいていた張本人だったからである[19]。
しかしルターによる呼びかけにも関わらず、ドミニコ修道会との討論会は実現しなかった[3]。当時のヴィッテンベルクの支配者であるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは、領内での贖宥状を禁じる目的でドミニコ会修道士を領地から全員追放していた[3]。ドミニコ会修道士はそもそもヴィッテンベルクに立ち入ることができなかったのである[3]。
ルターから「論題」の写しを受け取ったマインツ大司教アルブレヒトは、これをマインツ大学に委ね、周囲にはこの件について一切の言及を禁じた[20]。そのうえで自分の上席にあたる人物、すなわちローマ教皇レオ10世へ文書を回送した[21]。アルブレヒトはこれによって、この件についての自己の責任を免れると考えた[20]。そしてレオ10世こそ問題の贖宥状の販売の総元締めである[6]。
そのレオ10世は、当時の大多数の人々と同じように、これをアウグスティヌス修道会とドミニコ修道会の小競り合いに過ぎず、「修道士どもの口喧嘩」程度のことと考えていた[22][23]。ルターは「酔っぱらいのドイツ人」であり、しらふに戻れば違うことを言うだろうと評したとも伝えられている[15][注 4]。この時点でのルターの主張は要するに、誤りを犯しているドミニコ修道会に対し、正しいカトリックの教義を説こうとしているものだった[3]。レオ10世はアウグスティヌス修道会のドイツの長ヨハン・フォン・シュタウピッツにこの件を委ねることにした[21]。シュタウピッツはルターの主張に理解を示し、1518年4月25日に開かれる修道会の総会で議題にするように提案した[21]。
そのほかの聖職者たちも、表立った反応はさし控えた。ブランデンブルク司教のシュルツ(Hieronymus Schulz)のところにもルターから文書が届いたが、シュルツは読みさえしなかった。それでいてルターに自筆で親切な返事を書き、ルターの主張にはカトリックの教義に反するものは見受けられないし、贖宥状の販売は自分も嘆かわしいと感じるが、今は口を噤んでおいたほうがいいだろう、と伝えている。シュルツには、とにかくルターのいるザクセンとマインツ大司教の本拠[注 5]であるブランデンブルクの対立に発展するのを避けたいという思いしか無かったと考えられている[25]。
活版印刷術とドイツへの拡散[編集]
怪物の姿をした教皇に立ち向かうルター。教皇は口から水を吐いてルターがもつ灯りを消そうとし、鉤爪でルターの書を引き破ろうとしている。左側では修道院の鼠を連れた贖宥状売りがスズメバチに追われて立ち去ろうとしている[4]。
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ところが、何者かがこの文書をドイツ語に翻訳した[6]。ヴィッテンベルク大学の学生の仕業だとも言われている[3]。それがバーゼル、ニュルンベルク、ライプツィヒの印刷業者のもとへ持ち込まれ[6][17]、当時普及し始めた活版印刷によって複製された[5]。これが短い間にドイツの各地に広がっていき、さらにドイツ語以外にも翻訳されてヨーロッパ中に伝えられた[3]。ルターはこれを「天使ご自身が飛脚であったかのごとくに、14日間のうちに早くも全キリスト教界を一巡した」と評した[14]。
なお、このとき3箇所で印刷されたラテン語の文書はそれぞれ300部ほどが出回ったと考えられているが、そのほとんどは現存しない[17]。ニュルンベルク版は1891年にベルリンの学芸員がロンドンの古本屋で発見し、現在はベルリンに収蔵されている[17]。このニュルンベルク版には、冒頭部に「真理に対する愛から、」で始まる長い題名が付けられている(本節最上部参照。)[17]。バーゼル版では文書にラテン語で「Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum(贖宥の効力を明らかにするための討論[26])」という題名が付け加えられている[17]。各地の文書はいずれも無記名であり、出版者は不詳である[17]。
このように、新技術である活版印刷術がルターの主張の普及に重要な役割を果たした、という見方は多くの歴史家たちが支持している[27]。とは言っても、当時のドイツの識字率は平均して4パーセントから5パーセント程度だった[27] [注 6]。当時の人口とルターの出版物の出版数の推計から逆算すると、実際にルターの著作物を手にしたのは43人に1人程度に過ぎなかった[27]。当時活躍したのは、図像や平易な韻文入りの木版画によるパンフレット[注 7]と、説教師である[30][28]。印刷物が果たした役割はそうした説教師を感化するところにあった[27]。
各界の反応とルターの対応[編集]
この結果として、ルターの言説は大反響を巻き起こした[4]。しかし、純粋に学問的な討論を呼びかけたに過ぎないルターにとっては、これは予想外のことだった[15]。しかし肝心の神学者たちからはほとんど無視された格好になり[6]、ルターが望んだ学術的討論は実現しなかった[20]。
ルターが名指しで批判したドミニコ修道会だけは敏感に反応した[24]。ルターには関係無いのだが、ドミニコ修道会には以前から敵がいて、自分たちは攻撃を受けて迫害されていると考えていた[注 8]。そこへ新たにルターという敵が増えたという格好になっており、深刻な事態だと受け止めたのである[24]。
1518年1月20日、オーデル川のフランクフルトで開かれた修道士の総会で、ドミニコ修道会士で異端審問官でもあるヨハン・テッツェルがルターに反発して贖宥を認める論文を発表し、ルターを火刑にすべきだと気勢をあげた[21][24]。
一方のアウグスティヌス修道会では4月25日の総会でルターが演説した[21]。この総会にはブツァーやブレンツも出席しており、ルターに感銘を受けた彼らはのちに宗教改革の指導者となる[21]。
当時の人々は、これを単なるドミニコ修道会とアウグスティヌス修道会のいつもの小競り合いだとみなして[23]、面白おかしく眺めていた。修道会そのものをよく思わない人々は、「修道会同士の喧嘩」を煽り立て、嘲笑し、対立の火が燃え上がるのを愉快に見物していた[32]。
―たぶんまだ何にも御存知ないでしょうか。ザクセンのヴィッテンベルクで一派が教皇の権威に反抗しようとしていますし、他の一派は教皇の贖宥を弁護しています。修道士たちが両陣営をあげて戦うようにさせています。両方の確乎たる修道会長は熱く、激しく、軽率に、どなったり、吠えたり、涙を流したり、天に向かって訴えたりしていますし、そのほかに両陣営ともに、何か書こうと思い、図書館に走りこんでいく者がいます。人々は提題や反対提題や、推論や条項を売りさばいています。……私は、彼らがたがいに殺しあってしまうだろうと思います [32]。 — 人文学者のウルリヒ・フォン・フッテン、友人に宛てた書簡の中で
一件が妬みと悪意から起ったというのは、ほぼ確かなことでしょう。アウグスティヌス会士はドミニコ会士を妬んでおり、ドミニコ会士はアウグスティヌス会士を妬んでおり、両者はフランシスコ会士を妬んでいるのです[24]。 — アントワープの人文学者、スペインの人文学者に宛てた書簡の中で
この間、肝心の神学者たちからほとんど反応がなかったことに立腹したルターは、贖宥状の売り手を追撃するような小論『贖宥と恩恵とについての説教』を刊行した[6]。「95ヵ条の論題」と大きく違うのは、これがドイツ語で書かれたということである。このことはこの『説教』が、「論題」のように学者向けのものではなく、一般庶民向けに書かれたことを意味している。『説教』は20ヵ条に絞られていて、表現はより鮮明で過激になっていた。この中でルターは、相手方を「聖書の匂いをかいだこともない(中略)鈍い頭脳の持ち主」と攻撃した。この『説教』は20種類以上の版が作られたことがわかっている[33]。
贖宥状批判の背景[編集]
- 詳細はレオ10世による贖宥状参照
贖宥状の歴史[編集]
一般的に贖宥状の発行は十字軍のときに遡るとされている[34][注 9]。当初、贖宥状の発行は、十字軍のときか、100年に1度、とかなり限定されていた。その効能も限定的であり、「教会が定めた罰」をいくらか減免させるというものだった[19][35]。
ところがそのうち贖宥状の発行は50年に一度、33年に一度、25年に一度というふうに間隔が短くなっていき、やがて頻繁に発行されるようになった。特に15世紀後半のシクストゥス4世は、贖宥状を乱発すると同時に、その効能を現世での罰の減免だけでなく、煉獄にいるぶんにまで対象であると拡大した[6][35]。
こうした贖宥状を批判したのはルターが初めてではない。14世紀にはウィクリフ、15世紀にはフスが贖宥状の販売を批判している[35][注 10][注 11]。
レオ10世の贖宥状のからくり[編集]
ルターの批判の対象になったレオ10世による贖宥状は「聖ペテロ大聖堂の再建費用を集める」という名目で発行されていた。が、実はその本当の使途は違っていた。この贖宥状の売上は、最終的にはフッガー家という金貸しのところに入ることになっていた。これはローマ教皇レオ10世と、マインツ大司教アルブレヒトの借金返済のためのものだった。ただし、当のルターはそのような仕組みは全く知らなかった。一般庶民と同じように、「大聖堂の再建」に使われると考えていた[36][6][19][15][37]。
ザクセン選帝侯と贖宥状[編集]
当時のザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、レオ10世とドミニコ修道会の贖宥状販売には異を唱え、ザクセン領内での贖宥状の販売を禁止した[6][38]。と言っても、ザクセン選帝侯が贖宥状の販売を禁じたのはルターのような敬虔さからくる動機ではなく、領内の経済を慮ってのことだったと考えられている[3]。
ザクセン選帝侯自身、以前はさかんに贖宥状を販売していて、その売上で聖遺物を収集していた。ザクセン選帝侯の聖遺物コレクションは当時のヨーロッパを代表するものであり[39][注 12]、聖遺物を拝むことは、それだけで贖宥になるとされていたので、各地から参拝のために巡礼者が集まってきていた[3]。巡礼者が領内で費やす金はザクセン選帝侯領内の経済を潤していたのだが、贖宥状の販売はこれを妨げる危険性があった[3]。
また、領民が稼いだ金が、贖宥状の売上としてローマに送られるということは、ザクセン選帝侯領の富がローマへ流失していることにほかならなかった[3][注 13]。当時のドイツは「ローマの雌牛」(乳を絞られる存在)と蔑まれており、ドイツ諸侯はこれを苦々しく思っていた[44][45]。
この贖宥状はドミニコ修道会の修道士が販売を請け負っていたので、ザクセン選帝侯はドミニコ会の修道士を全員領内から追放したのだった[3]。しかしテッツェルはザクセン領地のギリギリまで行って贖宥状販売を行ったので、ザクセンの領民の中からも数多くの者が贖宥状を買いに行った[46]。
贖宥状批判を突然始めたわけではない[編集]
ルターは、アウグスティヌス修道会出身で、ヴィッテンベルク大学に招かれ、そこで神学博士号を取得した人物である[3]。自身の体験に基づく一風変わった授業を行い、ヴィッテンベルク大学の神学講義の改革を行っており、学内では有名な人物だった[3]。しかしこの時点ではドイツ全体としてはまだ無名の存在だった[15]。
ルターは掲示を貼りだす以前から、贖宥状批判を繰り返していた[6]。記録の残るところでは、1516年7月27日の説教で贖宥状の有効性に疑問を呈し、これが招く倫理の退廃を指摘している。これはちょうどテッツェル一行がザクセン領にもっとも近づいた時期である。ザクセン領を出て贖宥状を買い求めてきた庶民たちは、贖宥状売りの様子をルターに話して聞かせた。それはルターを怒らせるものだったという[6][注 14]。
ルターが「掲示」を行ったのは、それから1年3か月後のことである。10月31日当日の昼間の説教でも、ルターはこの問題を発言していたという[6]。
本当に「掲示」されたのか?[編集]
数百年にわたる無数の研究にも関わらず、1517年10月31日にルターが本当にこのような文書を掲示したのか、その事実性には論争があって解決していない[6][8][9]。日付が違うという説もあれば、ルター自身が自分で門に打ち付けたのか、人にやらせたのかという議論もある[7]。
同時代の史料で、この出来事を伝える唯一の情報源は、ルターの同僚だったフィリップ・メランヒトン(1497-1560)によるものである[6]。ルターが1546年2月に死去してから3か月後に刊行されたルターの著作集第2巻(1546年)の序文の中で、メランヒトンは、ルターが門扉に95か条の論題を掲示したと述べている[6]。しかし他の証拠はない[6]。
ルターが1517年10月31日に張り出したとされる文書が印刷されたものであったと伝えられているが[15]、実際にそうであったのか、手書きのものだったのかもわかっていない[7]。一般に当時の大学の掲示板に貼りだされる文書は、手書き、印刷どちらの可能性もある[7]。いずれにせよその原本も、印刷前の版も現存しない[7]。現存するのは、マインツ大司教アルブレヒトを経由してローマ教皇レオ10世に送られたものだけである[21]。ただしその中身は、1517年末にライプツィヒで印刷されたコピーと同じである[21]。
実際に門に貼りだしたかどうかや正確な日付はわからないが、いずれにせよこの時期にルターがこの文書を公表したことは確からしい[9]。
ルターの意図は?[編集]
上述の通り、ルターはそもそも公に教会を攻撃することを意図していたわけではなかった[7]。ルターは神学者との討論を呼びかけただけであり、その討論を通じて、教会の枠内での穏やかな改革を意図していた[47]。だから、意図とは違う形で一般庶民を中心に大騒ぎになってしまった直後、ルターはブランデンブルク司教に対して、主張の訂正を行い、全面的な撤回すらほのめかしている[33]。
しかしルターの意図とは裏腹に、「贖宥状批判」はドイツ中に知れ渡ったとされる。現代でも一般的には「ルターが贖宥状批判を行った」とされている。しかし、ルターが95ヵ条の提題を通じて論じようとしたのは、純粋な神学上の教理であった[12]。95ヵ条は全体として体系的でもないし、大半はルターの「独り言」のような文言だった[11]。贖宥状販売の問題はその中のほんの一部にすぎなかった[12]。
ルターが特に議論を望んだのは、贖宥状の販売そのものではなく、救済と良心の概念についてだった[12]。教理では、告解、悔悛の後に罰が与えられ、その罰が贖宥されるという手順であって、告解や悔悛を省いて贖宥にたどり着くはずはない[48]。だからルターは贖宥状を販売する教会を批判しただけではなく、贖宥状を購入する民衆も批判した[14]。
32 贖宥状によって自分たちの救いを得られたと信ずる者たちは、それを説いた説教師とともに、永遠の罪を受けるであろう。 — ルター、95ヵ条の論題の32[5](『世界の歴史6近代ヨーロッパ文明の成立』p67より)
しかし実際には、ルター自身は贖宥状について直接見聞きしたことはなく、すべて贖宥状を買った庶民からの又聞きでしかなかった。贖宥状を売りまわったドミニコ会修道士テッツェルが謳い文句にしていたという「グルデン金貨がチャリンと言えばたちまち魂は天国へポンと飛び上がる」という口上は、実際にテッツェルが言ったものではなく、ルターが「テッツェルはこう言っているらしい」として述べたものだった[注 15]。そしてルターはこの贖宥状のからくりまでは知らなかった[11]。マインツ大司教アルブレヒトのこともよく知らなかったし、まして教皇レオ10世のことは知らず、彼らがこの贖宥状の販売を企画した張本人であることは知らなかった[11][50]。ルターは、レオ10世は善良なる聖職者であり、無垢な教皇が悪い部下に騙されているのだと信じきっていた[11]。
50 もし教皇が贖宥説教者たちのする取り立てを知っていたなら、彼は聖ペテロ聖堂が自分の羊たちの皮、肉、骨で建てられるよりむしろ、灰と消えることを選ぶということを、キリスト者は教えられねばならない。 — ルター、95ヵ条の論題の50[51](『宗教改革小史』p80より)
実際のところ、マインツ大司教もローマ教皇も、神学者として教理に通じた人物ではなかった。マインツ大司教アルブレヒトはホーエンツォレルン家の王子で金で地位を買っただけであり、メディチ家の人物であるローマ教皇レオ10世は外交に長けていたが神学者ではなかった[20]。だから彼らのところに文書が回ってきても自力で判断することはできず、専門の神学者に回して意見を聞くしかなかった[20]。
当時はそもそも「贖宥」については神学の中でしっかりと位置づけられてはいなかった。アウグスティヌス修道院でルターに神学を教えた聖職者たちも贖宥については知識をもっていなかった[20]。
「贖宥」と「免罪」[編集]
- 詳細はレオ10世による贖宥状#贖宥状とは参照
ルターは、贖宥の概念について学術的な討議を求めていた。本来「贖宥」というのは、人が犯した「罪」に応じて、教会が人に与えた「罰」のうち、そのいくらかを免除するというものだった[35]。ルターの考えでは、カトリックの教理のなかでは、贖宥によって免じられるのは「罰」であって、「罪」自体が免れるわけではない。しかも教会が免じることができるのは、あくまでも教会が定めた「罰」のみであって、神が与えた「罰」は免じることができないはずである[19][35][注 16]。
5 教皇は、自己の判断と教会法の規定によって課したものを除いては、いかなる罰をも赦そうとするものではないし、また赦すことはできない。 — ルター、95ヵ条の論題の5[6](『皇帝カール五世とその時代』p25より)
ところが、この贖宥状を売っている連中は、ありとあらゆる罪が無くなるかのようなことを言っており、ひどいものでは「あらかじめ贖宥状を買っておくと、そのあと悪事を行っても大丈夫」というような売り口上すらあったという。これはカトリックの教理に反しているはずであり、そこを議論ではっきりさせたい、というのがルターの主張だった[35]。贖宥状の有効な対象が適切な部分に留まっているならば、それは教理に適合しているのであり、ルターは贖宥状が全て不適切だと批判したわけではなかった。
34 かの贖宥の恵みは、人間によって定められた秘蹟による償罪の罰だけにかかわる。 — ルター、95ヵ条の論題の34[52](『ドイツ史1』p433より)
ただし実際問題としては、贖宥の概念についてそこまで詳しく理解している聖職者は当時ほとんどおらず、修道会におけるルターの師はもちろん、大司教や教皇でさえも、こうした教理を精確に知っているものはほとんどいなかった。大衆は「罪」と「罰」の区別もついておらず、贖宥状売りの口上を鵜呑みにしているだけだった[35]。
その後[編集]
1518年の秋、教皇庁やザクセン選帝侯のとりなしで、カトリック教会とルターの討論が内々で行われた(アウクスブルク審問)[21][注 17]。しかし両者の主張は並行のままに終わった[21]。
この話し合いの後、アウグスティヌス修道会のシュタウピッツはルターを修道会から退会させることにした[21]。これによってアウグスティヌス修道会に対する責任問題を回避するとともに、ルターが自由に活動できるようにしたのである[21]。
翌1519年にはライプツィヒ討論が行われる[22]。この討論会は決裂に終わったが、カトリック側はルターを異端とする言質をとることに成功した[54]。ルターは教会批判の急先鋒とみなされるようになり、ローマ教皇はルターを異端として破門した[4]。この観点では、討論会はルター側の敗北とみられたが、その後の影響を考えると、かえってルターにドイツの注目が集まることになった[22]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 旧東ドイツの義務教育で用いられていた歴史教科書でも、「1517年のルターによる95ヶ条の発表とともにドイツの宗教改革は始まった。」とある[1]。
- ^ 10月31日の「正午」とする文献もある[7]。
- ^ 後述の通り、手書きのものだったとする異説もある。
- ^ 18世紀のドイツ劇作家ゴットホルト・エフライム・レッシングは、レオ10世が「兄弟マルティンはよい頭を持っている。あれは修道士の喧嘩にすぎまい」と述べたと伝えている。しかしレッシングは全く根拠を示していない[24]。
- ^ マインツ大司教アルブレヒトは、ブランデンブルクを治めるホーエンツォレルン家の出自である。マインツ大司教領はドイツの西部のライン川流域にあるのに対し、ブランデンブルクはドイツ東部のエルベ川流域にあるので、両者は大きく離れている。アルブレヒトは、実際には生涯のほとんどをブランデンブルクで過ごし、マインツにはほとんど赴かなかったと伝えられている。
- ^ 当時の識字率は都市部と農村部でも開きがあったと考えられている[28]。しかしドイツ全体の人口のうち、都市部が占める割合は10パーセント以下であり[29]、多くは文字の読めない農民だった[28]。
- ^ 矛盾しているようだが、これらのパンフレット(ビラ)には、「文字が読めない者は、読める者にこれを見せて読んでもらえ」と印字されていた。
- ^ その頃、ドミニコ修道会の修道士で迫害を請けていた人物が何人かいる。教皇を批判して火刑にされたジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)や、人文主義者のヨハネス・ロイヒリン(1455-1522)である[24]。当時はキリスト教徒によってユダヤ人とユダヤ教への迫害が行われており、人文主義者としてヘブライ語の研究もしていたロイヒリンは、ユダヤの古典にも歴史的価値があると考え、ユダヤの古文書の焚書に反対した。その結果、ローマ教皇との対立を招き、自身が迫害されるに及んだ[31]。
- ^ 厳密には、「大規模に発行された」初の例が第1回十字軍であり、贖宥状自体はそれ以前から存在していた[35]。
- ^ 特にフスの場合には事情が込み入っている。当時は教皇を名乗る人物が3人いる教会大分裂期で、そのうちヨハネス23世が別の「教皇」を武力で討つための軍費を募って贖宥状を出したものを、フスが批判したのだった。結局ヨハネス23世自身がコンスタンツ公会議によって異端や聖職売買で有罪とされて全ての権威を失うが、フスはそのまま火刑に処された[35]。
- ^ 1519年のライプツィヒ討論では、教会側はルターから「フスの主張に共感できる点がある」との発言を引き出すことで、ルターを異端と断定する論法をとった。
- ^ そのコレクション数は1509年の5000点から、1520年には19,013点まで増えていた[40]。しかしのちに、ルターが聖遺物崇拝も偶像崇拝の一種であると批判を始めると、選帝侯はコレクションを手放さざるを得なくなった[41]。コレクションのうち現存するのは、ルターに与えられたガラス製の杯1点のみである[42]。
- ^ ザクセン選帝侯領の富の源泉は、領内の銀鉱山にあった。当時の鉱山開発技術の発展によって、フリードリヒ3世の時代に鉱山収入は伸び、選帝侯を潤したのだった。フッガー家も鉱山収入で同時期に急速に発展したのであるし、ルターの父親はザクセン選帝侯の鉱山の監督官として財を築いた人物である[43]。
- ^ ルターがヴィッテンベルクの教会で庶民の告解を聞いていると、罪の告白をしながらも、反省の素振りも見せない者がいた。ルターがその者に対して悔悛の秘蹟を拒むと、その人物は買ってきた贖宥状をルターに見せびらかし、ルターを嘲ったという[46]。
- ^ ルターが言うには、テッツェルは「お前が聖母マリアを犯して身篭らせたとしても、贖宥状を買えばその罪はたちまち許される」など豪語したという[10][19]。しかしこのルターの引用は、事実ではなかっただろうと考えられている[49]。
- ^ たとえば聖戦であっても、人(敵の兵士であっても)を殺めること自体は神が定めた法に反することであり、罪が発生する。この罪に対し、神による罰と教会による罰が与えられる。ただし神による罰は告解によって神の赦しを得ることができる。一方、教会による罰は現世での罰でもあり、現世での善行によって贖わなければならない。例をあげると、ローマ教皇アレクサンデル2世の命によってヘイスティングズの戦い(1066年)に加わった騎士は、戦場で敵を1人殺すごとに10年の「罰」を背負うことになった[19]。存命中に善行を行ったり、巡礼に出て聖地を訪問したり聖遺物を礼拝したりすることで、溜まった「罰」はいくらかづつ贖われる[19]。これには代理を立てることもできるし、寄付によって済ますこともできる[35]。贖宥状は、溜まった「罰」のうち「7年」などの期間を免じるものである。もしも死ぬまでに罰をすべて贖い切れなかった場合には、死後、煉獄に落ち、罰が浄化されるまでの期間、焼かれることになる[19]。
- ^ ちょうどこのとき、アウクスブルクで帝国議会が開催されるので、諸侯や有力司教がアウクスブルクに集まることになった。そこで、非公式にルターと教会の学者の会談が行われた[53]。非公式であるがゆえに会場は私邸が使われたのだが、そこはフッガー家の屋敷だった[21]。この会談は、その後に行われる討論や審問に較べると、穏やかに行われた。教会側はルターに自説の撤回や、信徒を混乱させる説教の中止を要請したが、ルターは受け入れなかった。そこで、教皇の特使はルターがおおっぴらに問題発言をしなければ、教会側もルターを責めないという妥協案を示した。これには、そのかわりにルターを枢機卿に推薦するという条件も付与された。ルターはこれに同意し、この審問ののちしばらくのあいだは沈黙した。しかしドミニコ会がルターを攻撃し、ライプツィヒ討論を仕掛けることで、ルターはこの沈黙を破る羽目になった[21]。このアウクスブルク審問の裏側では、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と、ローマ教皇の政治的綱引きが行われていた。マクシミリアン1世は死期が迫っており(実際、この2か月後に死んだ。)、身内のハプスブルク家から後継者を推そうとしていた。皇帝と対立するローマ教皇はそれを妨げようとしており、教皇は次期皇帝にはドイツ諸侯の最有力者であるザクセン選帝侯フリードリヒ3世を推そうとしていた。ルターはザクセン選帝侯のお膝元ヴィッテンベルクの神学者であるから、マクシミリアン1世は、ローマ教皇にルターを攻撃させることで、ザクセン選帝侯とローマ教皇の仲を裂ける狙いがあった。一方のローマ教皇側は、ザクセン選帝侯を抱き込むために、ルターを強く攻撃することは避けたかった。結局、この審問は物別れにおわったが、マクシミリアン1世も後継者を指名できないまま死んでしまい、皇帝選挙が行われることになる[21]。
出典[編集]
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参考文献[編集]
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- 『ルター著作選集』,マルティン・ルター/著,ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校ルター研究所/編,教文館,2005,ISBN 978-4764272491
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- 『Skulls and Skeletons: Human Bone Collections and Accumulations』,Christine Quigley/著,McFarland & Company,Inc.,/刊,North Carolina・London,2001,ISBN 978-0786410682,Google Books版
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- 世界の歴史と文化『ドイツ』,池内紀/監,新潮社,1992,ISBN 4-10-601833-0
- 旅名人ブックス『ドイツの田舎町』,谷克二・武田和秀・鷹野晃/著,日経BP企画,2002,2004,2006(第3版第1刷)ISBN 4-86130-174-2
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 95か条の論題 - プロジェクト・グーテンベルク
Ninety-five Theses パブリックドメインオーディオブック - LibriVox
- Project Wittenberg Disputation of Doctor Martin Luther on the Power and Efficacy of Indulgences by Dr. Martin Luther, 1517
- BELIEVE Religious Information Source
- 日本大百科全書(ニッポニカ)『ルターの「九十五か条の論題」(抄)』 - コトバンク
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