高崎市立短期大学

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高崎市立短期大学
大学設置/創立 1952年
廃止 1958年
学校種別 公立
本部所在地 群馬県高崎市高松町1番地[注釈 1] 
学部 商経科
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高崎市立短期大学(たかさきしりつたんきだいがく、英語: Takasaki City Junior College[1])は、群馬県高崎市高松町1番地[注釈 1] に本部を置いていた日本公立大学である。1952年に設置され、1958年に廃止された。

概要[編集]

大学全体[編集]

学風および特色[編集]

  • 高崎市立短期大学は、当時としてはユニークな昼夜開講制となっていた[5][注 1]
  • 日中、教員や公務員などの仕事をしながら学ぶ学生も多かった[6]
  • 聴講生制度があった[7]

沿革[編集]

 

基礎データ[編集]

所在地[編集]

教育および研究[編集]

組織[編集]

学科[注 5][編集]

専攻科[編集]

  • なし

別科[編集]

  • なし

取得資格について[編集]

学生数[編集]

附属機関[編集]

研究[編集]

  • 『高崎論叢』[23]ほか。

学生生活[編集]

部活動・クラブ活動・サークル活動[編集]

学園祭[編集]

  • 高崎市立短期大学の学園祭は、開学した年の1952年秋にスタートした。夜間学生との交流が進められる数少ない機会となっていた[6]

スポーツ[編集]

  • バレーボールというスポーツが強く天皇杯全日本バレーボール大会において2年連続優勝という活躍をみせていた[25]

大学関係者と組織[編集]

大学関係者組織[編集]

大学関係者一覧[編集]

施設[編集]

キャンパス[編集]

  • キャンパスは、老朽化した兵舎を改築したものとなっていた。そのため、設置当初は設備面・備品などにおいて問題点が多かったようである[26]

学生食堂[編集]

  • 食堂部あり[22]

短期大学から大学移行に関して[編集]

短大から大学への移行に際しては、短大教授19人のうち経済大学に教員として残るのは6名で、13人が外された[27]大井正に代表されるように、進歩的な教員が再任されず、事実上追放された。市当局は、短大と高崎経済大学は別の大学であるため教授陣を引き継ぐ必要はなく、また13名は東京からの通勤で出講率が悪いためと説明したが、解雇された大井正教授らは「われわれ13人を思想的に面白くないとして整理したのだ」と訴えた[27]

これにかわって、東京大学の元教授で、高崎経済大学初代学長となる田辺忠男東宝争議時代、経営側としてストに強硬路線で対決した渡辺銕三ILO日本代表をつとめた北岡寿逸の三教授を中心とした保守派の教授陣を迎えた。田辺は、戦前、東大の革新派として土方成美橋爪明夫難波田春夫らとともに知られ、大内兵衛矢内原忠雄らのマルクス派、河合栄治郎大河内一男山田文雄らの純理派と角逐を繰り広げ、一時は辞表を提出した経緯を持つ。

注釈[編集]

注釈グループ[編集]

  1. ^ a b 現在の群馬県高崎市上並榎町1300にあたる
  2. ^ a b 昭和32年度より学生募集停止と記載あり[14]以後、高崎経済大学へ転換のため[15]

補足[編集]

  1. ^ 但し、表示上は「商経科」のみ。
  2. ^ 現在の文部科学省
  3. ^ 構想時には短大名称の候補として市立高崎商業短期大学も挙げられていた[11]
  4. ^ 入学定員200名。
  5. ^ 最終募集となった1956年度の体制[17]
  6. ^ 入学定員は200名。
  7. ^ 1954年[21]

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]