趙郡

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趙郡(ちょう-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の河北省邯鄲市一帯に設置された。

概要[編集]

のとき、邯鄲郡が立てられた。

紀元前203年高帝4年)、張耳が趙王となり、邯鄲郡・鉅鹿郡常山郡を管轄する趙国が置かれた[1]紀元前198年(高帝9年)、代王劉如意が趙王となり、趙国が代国を兼領した。紀元前194年恵帝元年)、趙王劉如意が呂太后の命で毒殺され、淮陽王劉友が趙王となった[2]紀元前181年(呂后7年)、趙王劉友が自殺すると、梁王劉恢が趙王となった。同年、劉恢が自殺すると、呂禄が趙王となった。紀元前180年(呂后8年)、呂后が死去し、文帝が即位すると、呂禄は殺され、趙国は除かれた[3]紀元前179年(文帝元年)、劉友の子の劉遂が趙王となり、趙国が再び立てられた。紀元前178年(文帝2年)、劉遂の弟の劉辟彊が河間王となり、河間国が分置された[4]紀元前154年景帝3年)、呉楚七国の乱が鎮圧されると、趙国は除かれ、邯鄲郡・鉅鹿郡・清河郡・常山郡・中山国が置かれた。紀元前152年(景帝5年)、景帝の子の広川王劉彭祖が趙王となり、邯鄲郡北部に趙国が置かれた[5]

前漢の趙国は冀州に属し、邯鄲易陽柏人襄国の4県を管轄した。王莽のとき、桓亭郡と改称された[6]

29年建武5年)、広陽王劉良が趙王となり、再び趙国が置かれた[7]後漢の趙国は邯鄲・易陽・柏人・襄国・中丘の5県を管轄した[8]213年建安18年)、趙王劉珪が博陵王となると、趙国は除かれ、趙郡が立てられた[9]

232年太和6年)、鉅鹿王曹幹が趙王となり、趙国が立てられた[10]

277年咸寧3年)、司馬倫が趙王となり、趙国が立てられた[11]の趙国は平棘房子元氏高邑・柏人・中丘・平郷下曲陽の9県を管轄した[12]

北魏のとき、趙郡は殷州に属し、平棘・房子・元氏・高邑・欒城の5県を管轄した[13]

北斉のとき、殷州は趙州と改称され、趙郡は趙州に属した。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、趙郡は廃止され、趙州に編入された。596年(開皇16年)、欒州が置かれた。605年大業元年)、趙州に統合された。607年(大業3年)、州が廃止されて郡が置かれると、趙州は趙郡と改称された。趙郡は平棘・高邑・賛皇・元氏・廮陶・欒城・大陸柏郷・房子・藁城鼓城の11県を管轄した[14]

618年武徳元年)、張志昂が唐に降ると、趙郡は趙州と改められた。742年天宝元年)、趙州は趙郡と改称された。758年乾元元年)、趙郡は趙州と改称され、趙郡の呼称は姿を消した[15]

脚注[編集]

  1. ^ 漢書』高帝紀
  2. ^ 『漢書』高五王伝
  3. ^ 『漢書』高后紀
  4. ^ 『漢書』文帝紀
  5. ^ 『漢書』景十三王伝
  6. ^ 『漢書』地理志下
  7. ^ 後漢書』光武帝紀上
  8. ^ 『後漢書』郡国志二
  9. ^ 『後漢書』宗室四王三侯列伝
  10. ^ 三国志』魏書武文世王公伝
  11. ^ 晋書』世祖紀
  12. ^ 『晋書』地理志上
  13. ^ 魏書』地形志二上
  14. ^ 隋書』地理志中
  15. ^ 旧唐書』地理志二