絳郡

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絳郡(こう-ぐん)は、中国にかつて存在した西魏から隋代にかけて、現在の山西省運城市一帯に設置された。

概要[編集]

527年孝昌3年)、北魏により北絳郡が立てられた。北絳郡は晋州に属し、新安北絳の2県を管轄した。528年建義元年)、南絳郡が立てられた。南絳郡は晋州に属し、南絳小郷の2県を管轄した[1]

西魏のとき、絳郡が置かれた。絳郡は東雍州に属し、絳県を管轄した。

北周のとき、南絳郡が廃止され、絳郡に編入された。南絳県が廃止されて、小郷県に編入された。絳郡は絳州に属し、絳・小郷の2県を管轄した。

583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、北絳郡と絳郡が廃止されて、絳州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、絳州が絳郡と改称された。絳郡は正平翼城曲沃稷山聞喜太平の8県を管轄した[2]

618年武徳元年)、により絳郡は絳州と改められた[3]

脚注[編集]

  1. ^ 魏書』地形志二上
  2. ^ 隋書』地理志中
  3. ^ 旧唐書』地理志二