滄州
滄州(そうしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から民国初年にかけて、現在の河北省滄州市および山東省浜州市一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
[編集]517年(熙平2年)、北魏により瀛州と冀州の一部を分割して滄州が立てられた。滄州は浮陽郡に属する饒安・浮陽・高城・章武の4県と楽陵郡に属する楽陵・陽信・厭次・湿沃の4県と安徳郡に属する般・重合・重平・平昌の4県の合わせて3郡12県を管轄した[1]。
隋代
[編集]586年(開皇6年)、隋により滄州は棣州と改められた。606年(大業2年)、棣州は滄州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、滄州は渤海郡と改称され、下部に10県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |||||
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区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | ||
州 | 滄州 | 冀州 | 郡 | 渤海郡 | |
郡 | 楽陵郡 | 浮陽郡 | 渤海郡 | 県 | 陽信県 楽陵県 饒安県 清池県 塩山県 南皮県 無棣県 滳河県 厭次県 蒲台県 |
県 | 陽信県 楽陵県 | 浮陽県 饒安県 高城県 |
南皮県 |
唐代
[編集]618年(武徳元年)、唐により渤海郡は滄州と改められた。滄州は清池・饒安・無棣の3県を管轄した。742年(天宝元年)、滄州は景城郡と改称された。758年(乾元元年)、景城郡は滄州の称にもどされた。滄州は河北道に属し、清池・長蘆・塩山・無棣・楽陵・南皮・饒安・臨津・乾符の9県を管轄した[3]。
宋代
[編集]北宋のとき、滄州は河北東路に属し、清池・塩山・無棣・楽陵・南皮の5県を管轄した[4]。
金のとき、滄州は河北東路に属し、清池・塩山・無棣・楽陵・南皮の5県と長蘆・新饒安・旧饒安・乾符・郭疃・分水・海豊・海潤・利豊・撲頭・馬明の11鎮を管轄した[5]。
元代
[編集]元のとき、滄州は河間路に属し、清池・楽陵・南皮・塩山・西無棣の5県を管轄した[6]。
明代以降
[編集]明のとき、滄州は河間府に属し、南皮・塩山・慶雲の3県を管轄した[7]。
1729年(雍正7年)、清により滄州は直隷州に昇格した。1731年(雍正9年)、滄州は天津府に転属し、属県を持たない散州となった[8]。
1912年、中華民国により滄州は廃止され、滄県と改められた。