秋元征紘

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あきもと ゆきひろ

秋元 征紘
秋元征紘「オリコンCSランキングアワード2010」会場
生誕 1944年昭和19年〉
日本の旗 日本 神奈川県横浜市
職業 実業家
作家
活動期間 1970年 -
肩書き ワイ・エイ・パートナーズ(株) 代表取締役
ジャイロ経営塾代表
補足
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映像外部リンク
『なぜ今、シュンペーターなのか』刊行記念対談/秋元征紘×FiNC溝口勇児 - YouTube
秋元征紘・イベント会場

秋元 征紘(あきもと ゆきひろ、1944年〈昭和19年〉 - )は、日本実業家作家。ワイ・エイ・パートナーズ(株)代表取締役、ジャイロ経営塾代表。株式会社ナイキジャパン元代表取締役社長。ゲラン株式会社元取締役会長・代表取締役社長。上智大学経済学部卒業、シドニー大学経済学部修士課程。神奈川県横浜市出身。

著書に「金の社員・銀の社員・銅の社員」「こうして私は外資4社のトップになった」「『ジャイロ経営』が社員のやる気に火をつける?パッション・カンパニー」がある。

概要[編集]

1944年昭和19年)神奈川県横浜市生まれ。上智大学経済学部を卒業、シドニー大学経済学部修士課程を修める[1]

1970年(昭和45年)日本精工(株)入社、2年後にニューヨークに3年駐在、トロントに5年駐在。トロントでは現地法人の販売会社のナンバー2になった。その後、日本ケンタッキーフライドチキン(株)(日本KFC)マーケティング本部長、日本ペプシ・コーラ副社長、日本KFC常務取締役、(株)ナイキジャパン代表取締役社長、LVMHグループのゲラン(株)代表取締役社長、取締役会長、ゲランSA(パリ本社)執行役員を歴任と、欧米企業日本法人のトップマネジメントを歴任する[1][2]

2006年平成18年)ワイ・エイ・パートナーズ(株)設立、代表取締役に就任[1]

2008年(平成20年)ジャイロ経営塾を設立。ベンチャー企業支援、戦略経営コンサルティング、大企業向けのグローバル人材研修およびマネジメント研修のプログラムデザイン・実施、数社の社外取締役・顧問等を務めるほか、執筆・講演等を精力的に展開[1]

子供地球基金の理事、六本木男声合唱団倶楽部の団員・幹事、裏千家茶道教室「茶美の会」の門下生など、広範囲な活動を行っている[1]

現在の肩書き[編集]

社外取締役
  • レナ・ジャポン・インステイチュート株式会社[3]
  • 株式会社FiNC Technologies[4]
  • 株式会社ホワイトプラス[5] 
  • 株式会社イー・ロジット[6]
顧問・アドバイザー
  • CREWW株式会社[7]
  • 株式会社スパイスアップ・ジャパン[8]
  • 株式会社エアーウィーブ[8] 
  • 有限会社アッソインターナショナル[8]
  • 株式会社アクアバンク[8]
  • 株式会社タカハタ電子[8]
  • 株式会社ジェーシーコムサ[8]
  • 合同会社warabee [9]
その他の活動
  • 子供地球基金 理事[10]
  • 六本木男声合唱団倶楽部 団員・幹事[11]

経歴[編集]

人物[編集]

生い立ち
  • 主計将校だった父親は29歳でフィリピンで戦死。その体験から人より“achievement(達成、完遂)”しなくてはいけない、普通の人より努力しないと無理という意識が強かった[2]
学生時代
  • 上智大学に入学した1964年は東京オリンピックの年で、ドイツチームの選手達を、閉会式後の新宿御苑で開かれたパーティー会場までバスで案内する車中で、スポンサー企業からの労いのコメントを英語でスピーチアルバイトをした。同世代の外国人選手たちと交流を重ねるうちに「絶対、これからは世界だ」と直感的に感じた[15]
  • 1965年にオーストラリアへ交換学生をする。費用がなかった秋元は3ヶ月間で100社以上の会社を回り、寄付金を集めることに成功[15]
  • 上智大学卒業後、1968年2月から日豪経済委員会の奨学金でオーストラリアへ行き、シドニー大学の大学院で2年間勉強、経済学部で修士課程をとった[2]
倒産・失敗~ケンタッキーフライドチキン本部長時代
  • 過去に先輩が始めたベンチャー企業に参画したが、連帯保証で横浜の600坪の土地と家3軒を失い大失敗した。その後、ケンタッキーフライドチキン田園調布店でアルバイトを経て、ケンタッキーやペプシ・コーラでマネジメント体験を経た。その体験がナイキ・ジャパンの社長やゲランの社長に役立ったという[15][2]
  • 32歳のときに参画したベンチャー企業が倒産。たまたま大学時代のゼミの先輩の大河原毅が日本ケンタッキーフライドチキンの副社長していた。「お前そのままでは、飯が食えないだろ」と声をかけてもらい時給600円の田園調布店でアルバイトをはじめたという。1ヵ月、アルバイトを経て、副社長と社長の面接。英語が得意だった秋元は企画販売部長、マーケティング本部長と仕事を行い大きなチャンスを得た[15]
  • ケンタッキーフライドチキンでアルバイトから企画販売部長に昇進後に1年間で、焼き鳥の居酒屋チェーン「一番どり」(コンセプトからロゴ作成まで全て手掛ける)、百貨店でチェーン展開する「京鳥(みやこどり)」(日本で一番価格の高い焼き鳥のテイクアウトをコンセプト)を実現[2]
ペプシコーラ副社長時代
  • オーストラリアの留学生時代の先輩から「日本のペプシコーラの副社長をやらないか」と電話があり決断[2]
ナイキ社長時代
  • ナイキにはヘッドハンティングされる。実は2年前に別のシューズ会社から声がかかったが「スポーツシューズをやるんだったら、ナイキだな」と思って断わる。その記憶が即決につながった[2]
  • (株)ナイキジャパン 代表取締役社長に就任したとき「Just Do It」のフレーズを日本語コピーと併用しようと考えたが、アメリカから来た部下に猛反対される。その部下は創業者のフィル・ナイトに相談して、秋元は本社のあるオレゴン州まで呼び出されて「絶対に翻訳するな」と厳命され、「Just Do It」のフレーズ一本化を決めた[16][17]
LVMHグループ・ゲラン社長時代
  • 当時社長の話が6つ来ていた。LVMHの人事トップのマダム・ランショーとゲラン社長と東京で会う。殺し文句として「あなた、パリ好き?」って聞かれて「好きだ」と返事すると間髪なく、「あなたはもう50歳でしょう。50歳になったらね、こういうところがいいわよ。わたしもカーネギーメロン大学に行って、インテルに行った。でもアメリカ人と仕事するのって疲れるでしょう。あなたは日本人だからこういう文化はわかるでしょう」と説得されて決断した[2]
ジャイロ経営塾 創設
  • 溝口勇児(FiNC代表取締役社長CEO)はジャイロ経営塾の元塾生。24才頃に門を叩いて年上のメンバー相手に毎回違うテーマに沿って学び、ディベートするうちに面白さを覚えて起業したいと思った[18][19]

著書[編集]

共著[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 【フォレスト出版】作家紹介・秋元征紘
  2. ^ a b c d e f g h 今できることをやる「秋元征紘インタビュー」
  3. ^ あなたのさくら色2020『きっと、さくら咲く』審査員「秋元征紘」
  4. ^ 【週刊アスキー】LINE森川氏が参画したヘルスケアベンチャーのFiNC、そのスゴすぎる経営陣
  5. ^ ホワイトプラス「役員紹介」
  6. ^ 株式会社イー・ロジット・会社概要
  7. ^ スタートアップを「下請けにはさせない」--大企業と“実利”あるコラボを目指す「creww」
  8. ^ a b c d e f システムプレーン「秋元征紘プロフィール」
  9. ^ [ http://warabee.llc/ 合同会社warabee会社概要]
  10. ^ Organization profile – Kids earth fund - 子供地球基金「組織構成」
  11. ^ 六本木男声合唱団倶楽部「役員・団員」
  12. ^ a b c d e f g h i j k l CEOへの道 秋元征紘・ジャイロ経営塾代表(第1回) 東洋経済オンライン 2018年7月14日閲覧
  13. ^ 経営者の条件 株式会社経営者JP 2018年7月14日閲覧
  14. ^ 八芳園で「オリコン顧客満足度ランキング」発表会-西川史子さんも登場
  15. ^ a b c d 何に「コミットメント」すべきか学んだ。ー元ナイキジャパン 秋元征紘さん
  16. ^ 【YAHOO!ニュース】Don’t Do It 企業スローガンを変えて人種差別撤廃を呼びかけるナイキをアディダスがサポート
  17. ^ 【東洋経済】ナイキの有名コピー「JUST DO IT.」の真実・元ナイキジャパン社長が語る創業者の信念
  18. ^ 【創業手帳】LINE森川さん、ナイキ元社長など豪華経営陣のFiNCの秘密とは?代表取締役・溝口勇児氏インタビュー
  19. ^ フィットネスクラブ再建で孤立 「孫さんになりたい」
  20. ^ 【プレジデント】なぜシュンペーターはスティーブ・ジョブズの成功を予言できたのか

関連項目[編集]

外部リンク[編集]