短命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

短命(たんめい)は、古典落語の演目のひとつ。原話は享保12年の『軽口はなしどり』の中の一編、【元腹の噂】。

演じている噺家は東京上方ともに多数。桂歌丸5代目三遊亭圓楽による演技がCD化されている。かつては5代目古今亭志ん生5代目柳家小さん十八番だった。


注意以降の記述で物語・作品に関する核心部分が明かされています。


目次

[編集] あらすじ

隠居のところへ飛び込んできた八五郎。入ってくるなりおかしな事を言う。

「伊勢屋の養子が三度も死んだんだよ!」

『伊勢屋』は表通りの質屋だが、『三度死んだ』とは?

すでに故人となった伊勢屋の先代は大変な人格者で、その一人娘も才色兼備の良い女に育った。

さてその娘、年頃になって婿をもらう事になり、婿入りしたのが「錦絵から抜け出したような」いい男。幸い、夫婦仲は良好。そんな二人の様子を見て、気が抜けたのかは定かではないが、娘の母親もぽっくり亡くなった。

当然、伊勢屋ののれんは娘夫婦が継ぐことになった……が、しばらくすると、養子の顔色が日に日に青白くなっていき、周囲がいぶかしむうちに床について、ほどなく死んでしまった。

葬式や何やらを済ませた後、伊勢屋の娘は「後家さんになるのはまだ早い」ということで二人目の養子を迎える。

今度の婿、陰ではブリのアラ》なるあだ名がつけられるほどの醜男だ。そんな"アラ"ながら、死んだ最初の旦那同様、お嬢さん――今はおかみさんだが――との仲は「やけに良かった」……そのうちこ奴も段々顔色が悪くなってきて、周囲が首をひねるうち、また逝った。

仕方なく伊勢屋は三人目の養子を迎えていたのだが、「二度あることは三度ある」とばかりに、この三人目の婿もまた、昨日あの世へ……

それで要は八公、葬式の作法や悔やみの文句を教わりに来たのだ。隠居から一応の作法を教わった後、八五郎は今まで考えてきた疑問を隠居に尋ねてみる。

「養子がよりによって三人も早死にするたぁ、何故です?」

おかみさんは三十過ぎの年増だが、めっぽう器量もよく性格も父親譲りの人格者。おまけに店はしっかりしているから、養子に余計なストレスがかかるはずもない。

しばらく考えた後、隠居いわく、

「おかみさんが美人……というのが、短命の元だよ」

隠居いわく、美人と結婚した旦那は短命、そうでない人と結婚した人は長命になるのだという。よくわからないと言う八五郎に、隠居はこんな話をした。

「食事時だ。お膳をはさんで差し向かい、おかみさんが旦那によそったご飯なんかを渡そうとして、手と、手が、触れる。白魚を五本並べたような、透き通るようなおかみさんの手だ。そっと前を見る……ふるいつきたくなるような、いい女だ……短命だよ」

八五郎、何のことだかわからない。隠居、「お前、ちょっと鈍すぎやしないか?」とあきれながらヒントを与える。

「そのうち冬が来るだろう。二人でこたつに入る、何かの拍子で手が触れる。白魚を五本並べたような、透き通るようなおかみさんの手だ。そっと前を見る……ふるいつきたくなるような、いい女だ……短命だよ」

八五郎、やっぱり何だかわからない。

「じゃあ分かりやすく川柳で説明しようか?」

  • その当座 昼も箪笥の 環(かん)が鳴り
  • 新婚は 夜することを 昼間する
  • 何よりも 傍が毒だと 医者が言い

率直な川柳を聞いて、八公もやっとこさ事の真相を理解した。房事過多、腎虚という奴だ。あきれた真相ではある。

隠居宅から自宅に戻ると八五郎、さっそく自分の女房に怒鳴られる。

「さっき、隠居のところでカカアの声を『遠吠え』呼ばわりされてきたけど、確かにそのとおりだな……」

仲が「良過ぎて」本当に死ぬぐらいの伊勢屋の養子どもと、この俺と、何でこうも違うんだろう、と幻滅する八五郎だが、折しも昼飯時、ふとあることを思いつく。

「給仕をしろ。そこに放りだしちゃいけねえ。ちゃんと手渡すんだ」

お椀を邪険に突き出した女房、夫婦の指と指が触れ、

「手と手が触れる。そっと前を見る……」

しばし沈黙があった。

八五郎、深く嘆息して「ああ、俺は長命だ」

[編集] タイトルについて

『短命』というタイトルは縁起が悪いとし、この噺を落ちに因んで『長命』とする演者も多い。しかし、『長命』では噺の途中で落ち(の展開)が予想されてしまうという考えから『短命』のまま演じる演者も少なくない。例えば冒頭で説明した圓楽は『短命』で演じ、歌丸は『長命』で演っている。

[編集] どこに主眼を置くか

いわゆる『艶笑落語(バレ噺)』である当作品は、一時期「不謹慎である」という理由から戦時中の【禁演落語】に入れられた事もあったが、【艶】の演出さえ過剰でなければ、実に味のある噺となる。特に、噺の核心を2・3篇の川柳だけで説明しきってしまう部分は秀逸である。

また、この噺の聴き所は「遠まわしに説明する隠居と、なかなか理解できない八五郎との齟齬」にあると考える人も多い。確かに、現代でも『どう教えればわかってくれるのか』と思うほどに理解の鈍い人は多く、この設定は充分に通用しそうだ。

とはいえ、この話の笑いどころの一つは、隠居が事の八分まできわどく語るたびに話を切り、八五郎の顔を見ては「……短命だよ」と重々しくつぶやく、その後のしばしの沈黙――隠居は悟ったようなしたり顔、八五郎は理解できずあっけにとられている、その沈黙の時間――にある。実際この話の聴衆は、二度三度と繰り返されるこの沈黙の時、必ずくすくすと笑うのである。

[編集] 外部リンク