狂気の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

『狂気の歴史』(フランス語: Histoire de la folie à l'âge classique 1961年)とは西欧の歴史において狂気を扱った思想、制度、芸術などについて考察したミシェル・フーコーの著作。フランス語の教師をしていたスウェーデンウプサラで書かれたが、「監禁」についてのこの論考は危険な書物とみなされ、完成後まもなくフーコーはフランスへと帰国することになる。「狂気の歴史」は博士論文としての審査をうけたのち、バルトブランショブローデルといった当時一流の知識人たちの推薦をうけて1963年にガリマール書店から再刊された[1]

理論[編集]

「狂気の歴史」というタイトルはけして自明のものではない。フーコーの目的は、精神疾患を医学的カテゴリーにおいて説明することではなく、西欧において変容してきた狂気の内実を歴史的な次元においてとらえることにあったからである。それは彼以前の人間科学が歴史的実践をなおざりにしてきたことへの批判でもあった[2]。フーコーはその「歴史」を、癩病患者が社会的にも物理的にも排除されていた中世まで遡る。そして、癩病は次第に姿を消していき、狂気がそれに代わって排除されるべきものとなったと彼はいう。狂った人間を舟に乗せて送り出したという15世紀の「阿呆船」は、文字通りその排除が一つの形をとったものであった。しかし、ルネサンス期には狂気がきわめて豊饒なる現象として扱われるようになる。なぜなら狂人とは、「人は神の理性(Reason of God)には近づきえない」という思想の体現だったからである。セルバンテスの「ドン・キホーテ」にみられるように、あらゆる人間は欲望と異物に弱いものだ。したがって正常でない人間を神の理性に接近しすぎた存在とみなす考えは中世社会でひろく受け入れられていた。ボッシュやブリューゲルの絵画に表象されているものこそ「狂気」である。それは死の不安であり、宇宙の混沌である。しかし、ルネサンス以降この狂気はそれまでのイメージ(画像)から、エラスムスの「痴愚神礼賛」がその典型であるように言語のレベルに移される。そしてこのとき、狂気は夢想的・宇宙的な強迫観念を離れ、理性との関係においてとらえられるようになった。あるいはより人間的なものに限定されたともいえる[3]

17世紀になってはじめて、フーコーが「大監禁時代」と表現したことで知られる潮流が起る。「理解不能な」人間たちがシステマティックに監禁され、収容されていった。18世紀には狂気は理性そのものを観察するかのように扱われるようになった。つまり、狂人は彼らを人間足らしめていたはずの何かを失い、動物じみた存在になってしまったと考えられ、そしてまた実際彼らは動物のように扱われた。19世紀にはいると、たとえばピネルやフロイトが登場することで、はじめて狂気が精神の不調であり、治療することのできるものと考えられるようになる。大規模な監禁が行われたのは17世紀ではなく、この19世紀だと主張する歴史家もわずかに存在するほどだ[4] 。またこういった事実は、フーコーの理論の土台を揺るがせる批判でもある。つまり啓蒙時代と狂人の抑圧との歴史的つながりが危うくなってしまうのだ。

しかし学者としてのフーコーが示したのは、狂人のために特化した医療施設ではなく、社会的なアウトサイダーを監禁するための施設が造られたということである。そこには狂人だけでなく、浮浪者、失業者、虚弱者、孤児なども含まれ、そういった人間たちみなを監禁するための施設が、西欧社会における狂人と狂気の概念にどのような影響を与えたのかということをフーコーは問題にしていたのである。そこでは「貧困」にあったはずの聖なる意味(貧者としてのキリスト)が失われ、「狂気」もまた想像力と切り離されて、公共性の問題に結びつけられたのだ[5]

フーコーの考察の射程はそれに留まらない。彼が示してみせたのは、社会から締め出された人間をこのように「監禁」することがヨーロッパではごく一般的だったということである。フランスでも、ドイツやイギリスなど他の国々でもそれぞれ独自にこの監禁は行われ、その仕組みは発達していった。このことは、フーコーが西欧における狂気の歴史を一般化するためにフランスでの事象を取り上げたという批判が当たらないことを示している。ロイ・ポーターのような史家のなかにも、そのような反論を退け、フーコーの著作のもつ革新的な本質を認めようとしなかった過去の批判を撤回する者もではじめている[6]

ルネサンス期における狂気は、社会的秩序の限界を示し、より深いところにある真実を照らし出す力を持っていた、ともフーコーは主張している。それは啓蒙のひかりのまえに沈黙させられていたものだ。近代における、フィリップ・ピネルやサミュエル・チュークの手になる狂人の科学的、「人間学的」な扱いの登場についてもフーコーは考察している。彼の主張によれば、そういった近代的な扱い方は、それまでの手法と何らかわるところがない。チュークの国では、狂人とされた人間はその狂気を手放さないあいだは罰を与えられるところまで後退していた。同じように、ピネルの狂人の処置もまた嫌悪療法の延長であった。凍えるような水を浴びせたり、拘束衣を用いたりして刺激を与えるのである。フーコーから見れば、このような扱いは罪と罰の定型が患者のうちで内面化されるまで繰り返される蛮行に等しかった。

意義[編集]

「狂気の歴史」は精神医学への批判として広く読まれ、反精神医学の文脈のなかでしばしば引用された。フーコー自身は、とくに回顧録のなかで「狂気のロマン主義」を批判している。「狂気のロマン主義」とは、狂気を近代医学が抑圧した「天才」がかたちをまとったものとしがちな見方のことである。またフーコーの読者がときに結論づけるような精神疾患の実体について論じたフーコーというのも正しくない。そうではなく、フーコーが探ったのはいかにして「狂気」が知の対象として制度化されていくのか、また一方である種の権力が介入する先となるのかということであった。精神病院という矯正施設にこそ[7]、この暗黙裡に築かれた知と権力の共犯関係がみてとれるのである。さらにまたフーコーは「狂気の歴史」とは「心理学の出現を可能にしたものの歴史」だと述べている。それは狂気が「人間の顔」を持ち、人間そのものを真理ととらえ科学的対象とするにいたった歴史なのだ[8]

日本語訳[編集]

  • 田村俶訳「狂気の歴史 : 古典主義時代における」新潮社、1975年

参考文献[編集]

フレデリック・グロ著、露崎俊和訳「ミシェル・フーコー」白水社文庫クセジュ、1998年

脚注[編集]

  1. ^ グロ(1998年) pp.10-11
  2. ^ グロ(1998年) pp.21-23
  3. ^ グロ(1998年) pp.24-25
  4. ^ Pierre Morel and Claude Quétel (1985). Les Médecines de la Folie. ISBN 2-01-011281-4. 
  5. ^ グロ(1998年) p.27
  6. ^ Colin Gordon "Extreme Prejudice: Notes on Andrew Scull's TLS Review of 'History of Madness'" [1].
  7. ^ Michel Foucault, The Order of Discourse, inaugurary lesson at the Collège de France (published in English as an appendix to the Archeology of Knowledge)
  8. ^ グロ(1998年) pp.36-37