毛利勝信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
毛利吉成から転送)
移動: 案内検索
毛利勝信
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 慶長16年9月8日1611年10月13日
改名 森吉成→毛利吉成→毛利勝信
別名 吉成、一斎
官位 壱岐守
主君 豊臣秀吉豊臣秀頼
小倉藩6万石
氏族 森氏(傍系)
父母 不明
兄弟 弟:毛利吉雄(吉衛)
毛利勝永(吉政)、毛利吉近、ほか

毛利 勝信(もうり かつのぶ、生年不詳 - 慶長16年9月8日1611年10月13日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。別名吉成(よしなり)、本姓は森氏で、森吉成や毛利吉成とも称する。壱岐守。号を一斎。弟に毛利吉雄、子に毛利勝永(吉政)がいた。

概要[編集]

尾張国の出身。豊臣秀吉が若いときに仕え始めた古参の臣で、黄母衣七騎衆の1人であった。

九州平定に参戦し、肥後国人一揆では首謀者の1人甲斐親秀を捉えて斬るという鎮圧の功[1]をあげて、豊前国の二郡、小倉6万石を与えられ、旧城を改修して現在の小倉城を築城した。また支城の岩石城は弟の毛利吉雄(吉衛とも言う)に預けた。

小倉では、高山右近のキリシタンの旧家臣団を引き受けた一方で、地元で勢力を誇った英彦山神宮と長く対立した。

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵では2,000人の軍役を命ぜられ、四番隊の長として島津義弘らの南九州勢を率いて渡海して江原道に展開した。また南部布陣後の第二次晋州城攻防戦に参加し、和平交渉期には林浪浦城を築いて朝鮮南部に在番した。

慶長2年(1597年)、慶長の役では子の勝永を伴って出陣し、加藤清正らとともに黄石山城を攻略し、全州会議後は忠清道から全羅道を掃討した。このとき井邑会議に参集した左軍の諸将は連著で今後の作戦展望として「南部再布陣の計画では釜山の守備が立花宗茂とされていたが、重要拠点のために毛利勝信に変えるべき」との書状を秀吉に送っている。 南部へ帰還した勝信はまず泗川倭城を築城して守将担当の島津義弘に渡し、勝信自身は前述の注進の通りに釜山に在番した。年末から始まる第一次蔚山城の戦いでは蔚山倭城で窮地に陥った加藤清正を救援し攻城中の明軍を大破した。この戦いの後に勝信は西生浦倭城へ移陣し最終局面まで在番した。

関ヶ原の戦いでは西軍について、勝永が伏見城を攻めた。豊前にいた勝信は、勝永に同行した家老毛利信友(九左衛門)が伏見で戦死したので、支城香春岳城の城主に自分の子を据えようとしたが、信友の郎従と遺子吉十郎は激怒して香春岳城を黒田如水に譲ってしまい、その先鋒となった。如水は勝信に西軍敗北を知らせて投降するように勧めた。如水とは旧知の仲であり、説得に応じて徳川家康へのとりなしを依頼し、勝信は剃髪して一斎を号した。ところが実は如水はすでに豊前一国の切り取り自由、安堵の約束を取り付けており、騙された勝信・勝永は戦後改易されて、肥後へ追放されることになった。

最初、加藤清正が、次いで旧知の仲であった山内一豊土佐で毛利親子の身柄を預かった。これはもともと豊臣家臣団で上役の勝信が一豊の面倒を見てきたことに加えて、勝永が西軍にありながら一豊の妻の千代の保護に奔走していたためと言われ、土佐では高知城外に住居を用意されて厚遇されたという。

関係性[編集]

森姓から毛利姓に替えたものに、毛利高政毛利吉安兄弟などがいるが、森高次と勝信との関係性は不明。何れも尾張出身で、同族か近縁と思われる。また毛利信友も親族と思われるが続柄は不明。

子孫[編集]

脚注・出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 角田政治 『熊本市・飽託郡誌 : 附県下名都名勝』 名著出版、1974年、231頁。 ASIN B000J9F5JS

参考文献[編集]