本寿院

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本寿院(ほんじゅいん、文化4年(1807年) - 明治18年(1885年))は、江戸幕府の12代将軍徳川家慶側室で、13代将軍・徳川家定の生母。他にも2人の男児を出産したが、いずれも早世した。本寿院は落飾後の院号で、実名は美津堅子とも言う。父は幕臣の跡部正賢跡部正寧とする説もある)。

生涯[編集]

文政5年(1822年)に西ノ丸大奥に出仕し、翌年に将軍家継嗣・徳川家慶のお手つきとなり、御中臈となる。文政7年(1824年)に西ノ丸大奥にて政之介(後の13代将軍家定)を出産した。政之介のことは全て乳母の歌橋に任せていた。美津は西ノ丸大奥にて「お部屋さま」と呼ばれるようになった。

天保8年(1837年)に11代将軍徳川家斉が将軍職を家慶に譲る。家慶は家斉と入れ替わりで本丸に入り、美津や他の側室、老女姉小路らが本丸大奥に入る。美津の子・政之介が将軍家継嗣と定められ、美津は次期将軍生母となり、次期将軍生母に相応しい身分「老女上座」を与えられる。

翌天保9年(1838年)に家慶の命により、政之介と共に二ノ丸大奥に居を移す。大御所・家斉が死去すると、美津と政之介は二ノ丸大奥から西ノ丸大奥に居を移す。

嘉永6年(1853年)6月22日に家慶が薨去すると、美津は落飾し、本寿院と号す。家定が13代将軍となり、将軍生母として本丸大奥に居を構えた。しかし、本丸大奥での権力者となったのは美津ではなく、家定を育て上げた乳母の歌橋だった。[要出典]

家定は病弱であり、幕府首脳陣はすでに家定には子を作る能力はないと見切りを付けたため、将軍継嗣問題が持ち上がる。次代の将軍候補に水戸藩徳川斉昭の息子・一橋慶喜紀伊藩主・徳川慶福が挙がると、水戸嫌いの大奥はこぞって慶福派にまわる。本寿院は「慶喜殿が将軍になれば、わたくしは死を選ぶ」と言ったほど慶喜の将軍就任に反対した。そんな大奥を慶喜派にするために、家定の御台所に迎えられたのが篤姫である。しかし、将軍生母の本寿院自身が慶喜の名前を耳にするだけでも嫌がるという忌み嫌いようで[1]、大奥の情勢を篤姫一人で覆すのは困難な情勢となっていた。

安政5年(1858年)7月6日に家定が死去すると、14代将軍には本寿院や大奥が支持した慶福改め徳川家茂が迎えられる。その後も本寿院は大奥に残り、幕府崩壊を大奥から見届けた。慶応4年(1868年)4月11日、江戸城無血開城によって大奥から出た後は、天璋院(篤姫)と共に一橋邸に移り住み、平穏な余生を送った。

明治18年(1885年)に一橋邸にて死去、享年79。墓所は上野谷中墓地

補注[編集]

  1. ^ 本寿院は家定に生殖能力がないことを認めなかったらしい。そのため、大奥内で将軍継嗣問題を話すこと自体がタブーとなっていた。参考「将軍継嗣問題と維新前後の篤姫」