本多光太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本多光太郎(ほんだこうたろう、明治3年2月23日(1870年3月24日) - 昭和29年(1954年)2月12日)は物理学者、金属工学者(冶金学者)。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られる。文化勲章受章者。文化功労者。
目次 |
[編集] 生涯
- 1870年、愛知県碧海郡矢作町(現岡崎市)生まれ。
- 1888年一高入学。
- 1894年東京帝国大学理科大学物理学科入学。
- 東京帝国大学理科大学物理学科卒業。
- ドイツおよびイギリス留学。
- 1911年に東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となる。
- 1916年臨時理化学研究所第二部研究主任
- 1917年KS鋼を発明。
- 1919年東北帝国大学附属鉄鋼研究所初代所長
- 1922年同金属材料研究所初代所長
- 1931年同大学総長に就任。
- 1934年新KS鋼を発明。
- 1937年第1回文化勲章を受章する。
- 1942年興亜工業大学(千葉工業大学)の顧問に就任。
- 1949年東京理科大学学長となる。
- 1951年文化功労者に選ばれる。
- 1954年没
KS鋼、新KS鋼は何れもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼とみなされていたので、鋼という名称になっている。
研究組織の運営にも手腕を発揮し、東北大学金属材料研究所の設立に尽力し、同研究所を材料科学の世界有数の拠点に拡充発展させる礎を築いた。
無類の実験好きとして知られ、「今日は晴れているから実験しよう」と言って実験室に籠もり、その翌日雨が降れば「今日は雨だから実験しよう」と言ってやはり実験をしていたと言われる。 また自身の結婚式に姿を現さないため、よもやと思って探しに行ったところ大学の研究室で実験をしていたという逸話もある。
自身が指導している研究者に対しては毎日のように実験の進行状況を「どおだあん(どんな状況だ?)」と言って確認していただけでなく、論文に対しても細かい指示を行っていた。このため、本多が輩出した研究者たちは「本多スクール」の出身者ともいわれる。本多は研究者としてだけでなく研究指導者としてもその才能を発揮していたといえるだろう。
本多は身の回りの細かいことは気にかけず大雑把であったという。 東北帝大総長当時、式典での総長による教育勅語朗読はいつも少なくともどこか一ヶ所は読みが間違うか読み飛ばすかした。
羽織は紐の結び目が左右で大きく偏って結ばれ、雨でも晴れでもいつも洋傘を手に歩いていた。 「傘があれば、雨でも濡れんでええわなあ。晴れなら荷物と反対の手にバランスが取れてええわなあ」と語ったと伝えられる。 身なりもこだわらず、着物は古いものをいつまでも長く用い、履物は底が相当磨り減るまで履いた。 雑種の犬を連れて大学に出勤したと伝えられている。
鉄に関して、「鉄」の旧字体「鐵」が「金・王・哉」に分解できることから、「鐵は金の王なる哉」と評した。また色紙に「今が大切」「つとめてやむな」と揮毫したものが残されている。
[編集] 顕彰
- 英国鉄鋼協会ベッセマー賞(1922年5月4日)
- 帝国学士院会員(1922年12月26日)
- 米国金属学会名誉会員(1924年)
- 米国フランクリン協会エリオットクレッソン金牌(1931年5月20日)
- ドイツ、ゲッチンゲン大学名誉理学博士(1933年11月)
- 文化勲章(1937年4月28日)
- 東北帝国大学名誉教授(1940年7月31日)
- 仙台市名誉市民(1949年5月2日)
- 文化功労者(1951年)
- 勲一等旭日大綬章(1954年2月12日)
[編集] 資料
- 書籍「本多光太郎伝」(石川悌次郎著、日刊工業新聞社、昭和39年(1964))
- 書籍「本多光太郎―マテリアルサイエンスの先駆者」(平林真編、本多記念会監修、アグネ技術センター刊、平成16年(2004))
- 資料館 本多記念室(宮城県仙台市青葉区片平2-1-1 東北大学金属材料研究所本多記念館内)
- 資料館 本多光太郎館(愛知県岡崎市欠町大山田1-1 岡崎市東公園内) - 本多の幼いころの勉強部屋だった家屋を移築したものである。
また東北帝国大学在職時の住宅が本多会館(宮城県仙台市青葉区米ケ袋)として東北大学管理の施設として残る。
- 東北大学史料館(宮城県仙台市青葉区片平2-1-1)において「本多光太郎文書」(1911-20年頃の研究ノート、実験記録、論文原稿等)が保存・公開されている

