悟渓宗頓
悟渓宗頓(ごけいそうとん、1415年(応永22年)[1] - 1500年10月9日(明応9年9月6日))は、室町時代の臨済宗の僧。大徳寺52世住持、妙心寺11世住持を務め、妙心寺四派の一つである東海派の開祖となった。
尾張国丹羽郡南山名村(現・愛知県丹羽郡扶桑町南山名)に生まれる[1]。出家後、瑞泉寺(愛知県犬山市)で妙心寺四祖の日峰宗舜に師事して本格的な修行に励む[1]。その後愚渓寺(岐阜県可児郡御嵩町)の義天玄承、汾陽寺(岐阜県関市武芸谷)住持の雲谷玄祥、や大樹寺(三重県四日市市市場町)住持の桃隠玄朔の下に参禅した[要出典]。京都に移ってからは龍安寺の住持で、妙心寺六祖の雪江宗深に就いて印可を得た。宗深から「悟渓」の名を与えられた[1]。
1467年(応仁元年)戦火を避けて瑞泉寺に戻り[1]、臥龍庵に住するようになる[要出典]。1468年(応仁2年)斎藤妙椿の招きにより、土岐成頼の菩提寺である瑞龍寺(岐阜県岐阜市)を建立した[1]。1471年(文明3年)に大徳寺52世住持となり、1480年(文明12年)に再度大徳寺に住した。1484年(文明16年)には景川宗隆の後任で妙心寺11世住持となり、東海庵の開祖となる。晩年は瑞龍寺に戻り法嗣を育成し、また瑞泉寺に住まい、徳林寺(愛知県丹羽郡大口町)の開祖となった。[要出典]1497年(明応6年)勅して大興心宗禅師の号を賜い[1]、1500年(明応9年)瑞龍寺済北院で没した[1]。後に仏徳広通国師と諡された[1]。
天従宗受・西川宗洵・仁済宗恕・玉浦宗珉・寿岳宗膨・瑞翁宗縉・独秀乾才・興宗宗松の8人の法嗣を「悟渓下八哲」と呼び、濃尾地方に広くその法を遺した[要出典]。また、残されたその法語は後に『虎穴録』としてまとめられた[要出典]。