小林富士夫

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 小林 富士夫 
Fujio KOBAYASHI
基本情報
名前 小林 富士夫
生年月日 (1944-07-15) 1944年7月15日(79歳)
身長 174 cm (5 ft 9 in)
体重 73 kg (161 lb)
出身地 神奈川県
経歴
2009年4月7日現在
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小林 富士夫(こばやし ふじお、1944年7月15日 - )は、神奈川県出身のプロゴルファー

医療法人光洋会所属[1] [2]

略歴[編集]

日体荏原高校では丸山茂樹伊沢利光の先輩となる[3]が、小林は野球部の外野手[4]で甲子園を目指し、東京都予選の決勝進出が最高の成績であった[5]

卒業後は横浜市中央卸売市場本場仲買人[4]サラリーマン[4]トラック運転手などの職を経て、21歳で神奈川県のゴルフ場の管理課職員になったのが、プロを目指すきっかけになった[5]。22歳からゴルフの練習を始め[5]1970年に26歳でプロテストに合格[4]

プロ入り当初から手首腱鞘炎が持病のようになっていたが、地味だがステディなゴルフ[5]を身上に活躍。

1975年関東オープンでは最終日に青木功が6番で10mもの大フックラインを放り込み、これでエンジンがかかったのか、そこから数えて4連続バーディを獲って快進撃をすると、小林も7番でバーディを獲った後の、左へ直角に曲がる8番ロングホールで2オン1パットのイーグル[6]。一気に5アンダーとして、青木との1打差を守った[6]。14番でもバーディを獲ったが、2位に終わった[6]

1976年くずは国際で陳健忠(中華民国)を抑えて[7]逆転でツアー初優勝を飾る[8]と、1977年ブリヂストンオープンでは最終日に18番でパットを手堅く寄せる[9]など通算10アンダー[10]で逆転優勝を飾り[11]1978年にはロサンゼルスオープンに出場。

帰国後の日本プロでは初日に青木らと共に4位に付けると、2日目には尾崎健夫と共に6位グループ、3日目は10位であったが、最終日はショット好調で16、17番連続バーディーなど、ボギーなしの67で回り通算7アンダーとなる[4]。同じく7アンダーの中嶋常幸とのプレーオフに突入し、最初のホールは16番パー5で中嶋は2オン[4]。グリーンオーバーした小林は第3打も7mと寄せ切れず、中嶋はイーグルパットを2m以上オーバーさせるが、有利な状況に変わりはなかった[4]。小林は「フックラインだが、フックに打ったら外れる。ストレートで思い切って攻めよう」と思い、先に7mを決めた[4]。追い詰められた中嶋が外して3パットとなり、小林がプロ初の公式戦タイトルをプロ日本一で飾った[4]

1981年には日本ゴルフツアー機構(JPGA)のツアー競技に指定された長野県オープン[12]草壁政治のプレーオフになったが、濃霧のため途中打ち切り[13] [14]で同スコア優勝となった。

1982年の日本プロでは、左手の腱鞘炎と血行障害に悩みながらも、常にフルスイングするようにし、初日に8バーディー、2ボギーの66をマーク[15]。4番16mのバーディーパットを決めるなど、パットが冴えて首位に立ち、最終的には倉本昌弘の3位タイであった[15]

同年の群馬県オープンでは初日から首位を譲らず、逃げ切って優勝[16] [17] [18]

1983年ブリヂストン阿蘇では上野忠美とのプレーオフを1ホール目で決めて優勝[19]するが、1987年からはシード落ちが3シーズン続く[5]

1989年にはシーズン27試合を戦い、ミズノオープン2位、テーラーメイド・ブリヂストン阿蘇3位など、前半戦でいい結果を出したこともあって、秋以降は棄権やら予選落ちが続いたものの、1990年には返り咲きを果たす[5]

1993年ハワイパールオープンでは強風が続く最終日に3アンダーの69で回りプレーオフに持ち込むが、プレーオフ1番ホール(パー5)のティーショットでいきなりOBを叩き自滅し、2位に終わった[20]

1994年からはシニア入りし、2年目の1995年のTPCスターツでシニア初優勝を飾って以来、後援・協力競技合わせてシニア14勝をマーク[21]

2000年にはコマツオープン[22]、アサヒ緑健TVQシニア[23]で優勝。

2001年日本シニアオープンではプレーオフで高橋勝成テリー・ゲールオーストラリア)を破り、同大会の最年長優勝記録(57歳3ヶ月)を更新する[3]。最年長記録は翌2002年キャッスルヒルオープン鷹巣南雄に、2007年に日本シニアオープンで青木によって更新されている。

2002年の日本オープン[24]を最後にレギュラーツアーから引退し、60歳となった2004年には関東プログランドシニアでも優勝[25]

主な優勝[編集]

レギュラー[編集]

  • 1976年 - くずは国際
  • 1977年 - ブリヂストンオープン
  • 1978年 - 日本プロ
  • 1979年 - 長野県オープン
  • 1981年 - 長野県オープン
  • 1982年 - 群馬県オープン
  • 1983年 - ブリヂストン阿蘇
  • 1985年 - 伊香保国際
  • 1991年 - 丸善建設カップ、NISSANオールスター、後楽園カップ
  • 1992年 - NISSANオールスター

シニア[編集]

  • 1995年 - TPCスターツシニア
  • 1996年 - HTBシニア
  • 1997年 - シニアチャリティプロアマ
  • 1999年 - キャッスルヒルオープン、アサヒ緑健HTBシニア
  • 2000年 - コマツオープン2000、アサヒ緑健HTBシニア、オールドマンパーシニア、アサヒ緑健TVQシニア
  • 2001年 - 日本シニアオープン、アサヒ緑健HTBシニア、全日空・石垣島シニアプロアマ
  • 2003年 - MKチャリティシニア
  • 2004年 - ヨネックスオープン沖縄、関東プログランドシニア

脚注[編集]

  1. ^ 小林富士夫 - PGA会員詳細 - 公益社団法人 日本プロゴルフ協会
  2. ^ クラブ活動|光洋会
  3. ^ a b 2003年シニア選手紹介
  4. ^ a b c d e f g h i 第46回日本プロゴルフ選手権(1978年)
  5. ^ a b c d e f 小林 富士夫選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
  6. ^ a b c 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】姉ケ崎カントリー倶楽部。「シャンメェ」の青木功が我慢のゴルフで大会2連覇。1975年関東オープン
  7. ^ 公式ホームページ - くずはゴルフリンクス
  8. ^ 1976年04月18日 小林が初優勝 くずは国際トーナメント
  9. ^ 1977年10月30日 手堅く寄せる小林 ブリヂストンゴルフ最終日
  10. ^ 1977年10月30日 カップ手に笑顔の小林 ブリヂストンゴルフ最終日
  11. ^ 小林富士夫(フリー) 男子プロゴルファー ブリヂストン・ゴルフ 最終日 優勝(著作権・スポニチ)
  12. ^ ツアー スケジュール 1981 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  13. ^ 朝日新聞縮刷版p100 昭和56年7月3日朝刊16面
  14. ^ 毎日新聞縮刷版p94 昭和56年7月3日朝刊18面
  15. ^ a b 第50回日本プロゴルフ選手権(1982年)
  16. ^ 朝日新聞縮刷版p643 昭和57年7月17日朝刊17面
  17. ^ 朝日新聞縮刷版p680 昭和57年7月18日朝刊16面
  18. ^ 朝日新聞縮刷版p714 昭和57年7月19日朝刊18面
  19. ^ 1983年04月17日 上野に祝福される小林 ブリジストンゴルフ最終日
  20. ^ ハワイパールオープン
  21. ^ 2006年シニア選手紹介
  22. ^ 麻生飯塚ゴルフ倶楽部のあゆみ History
  23. ^ アサヒ緑健カップTVQシニアオープンゴルフ:第2回大会
  24. ^ 小林 富士夫選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
  25. ^ 2005年シニア選手紹介

外部リンク[編集]