台北市 (日本統治時代)

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たいほくし
台北市
栄町(1942年)
栄町(1942年)

台北市章
1920年(大正9年)10月1日制定
廃止日 1945年10月25日
廃止理由 中華民国による台湾接収
台北市台北市台湾省省轄市
現在の自治体 中華民国の旗 中華民国 台北市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 台湾
都道府県 台湾 台北州
面積 66.9872km2.
総人口 383,650
(1942年)
隣接自治体 七星郡士林街、内湖庄
新荘郡鷺洲庄
海山郡板橋街、中和庄
文山郡深杭庄
台北市役所
所在地 台湾台北州台北市樺山町1丁目7番地
座標 北緯25度02分47秒 東経121度31分15.5秒 / 北緯25.04639度 東経121.520972度 / 25.04639; 121.520972座標: 北緯25度02分47秒 東経121度31分15.5秒 / 北緯25.04639度 東経121.520972度 / 25.04639; 121.520972

台北市全図(1922年)
ウィキプロジェクト
中華民国行政院(旧:台北市役所)

台北市(たいほくし、旧字体臺北市)は、日本統治時代の台湾に存在した台北州に属した。台湾総督府が所在するなど台湾の行政・経済の中心であり、「島都」と呼ばれた[1]

概要[編集]

台北市街は城内中国語版大稲埕艋舺中国語版の主に3つのエリアに大別された。城内は主に内地人(日本人)、大稲埕、艋舺には主に本島人(台湾人)が居住していた。 台北市には様々な経済施設に加え、公園図書館博物館といった文化施設もあった。 幅20mアスファルト舗装の道路が整備され、通りには赤レンガ鉄筋コンクリート造の3階建ての住宅が立ち並び、市の中心部には面積7万6000の台北新公園(現:二二八和平公園)があった。市街は歩行者専用道路並木道交通島を備えた三線道路に囲まれ、その美しい景観から「東洋の小パリ」と呼ばれた。

行政区画[編集]

1920年(大正9年)10月1日、旧台北庁時代の直轄地域の4区(艋舺、大稲埕、大龍峒、古亭村)と士林支庁士林区大直庄中国語版の区域をもって台北市が成立した。市内は台北城内中国語版崁頂中国語版龍匣口中国語版古亭村中国語版林口中国語版三板橋中国語版(以上が現在の中正区に位置する)、艋舺中国語版下崁中国語版加蚋子中国語版(以上が現在の万華区)、大稲埕大龍峒中国語版番子溝中国語版(以上が現在の大同区)、山子腳中国語版牛埔中国語版西新庄子中国語版中庄子中国語版下埤頭中国語版朱厝崙中国語版上埤頭中国語版、大直(以上が現在の中山区)、中崙中国語版(現在の松山区)、大安中国語版頂内埔中国語版下内埔中国語版六張犁中国語版(以上が現在の大安区)の合計25個の大字に分けられた。

一部の大字の下には下記の小字が存在した[2]

  • 台北城内:府前街、府後街、府直街、撫台前街、北門街、西門街、石防街、東門街、南門街、文武廟街、書院街、小南門街
  • 三板橋:有東門外、埤頭、埤子腳、大竹圍、莿子埒
  • 艋舺:旧街、直興街、頂新街、廈新街、大眾廟口街、北皮寮街、土地後街、半路店街、歡慈市街、布埔街、久寿街、竹子寮街、大溪口街、帆寮口街、王公宮口街、江瀕街、将軍廟街、蓮花街、祖師廟橫街、祖師廟前街、後菜園街、八甲街、万安街、西門外街、新起街、新起橫街、新起後街、後街子街、粟倉口街、凹斛子街、龍山寺街、大厝口街、竹篙厝街、料館口街、育嬰堂邊街、書院邊街、大厝後街
  • 下崁:頂石路、中石路、下石路
  • 加蚋子:堀子頭、客子厝、後庄子、中崙、港子尾、下庄子、八張犁
  • 大稲埕:河溝頭街、千秋街、稲新街、北門外街、興仁街、南興街、頂奎府聚街、建成後街、維新街、怡興街、得勝外街、建成街、得勝街、太平街、蘆竹腳街、法主公街、城隍廟前街、六館街、建昌街、媽祖宮口街、南街、永和街、朝陽街、建興街、朝東街、新店尾街、井子頭街、九間子街、長楽街、中街、李厝街、中北街、怡和巷街、日新街、長興街、隆記後街、震和街、普願街、珪瑜粹街、杜厝街、獅館巷街、益保裕街、国興街、大橋頭街、枋隙後街、依仁里街、枋隙街、上牛車磨街、下牛車磨街、下奎府聚街、牛埔子街、詔安厝街、北門口街
  • 大龍峒:大龍峒、下牛車磨
  • 下埤頭:下埤頭、東勢
  • 大直:大直、剣潭
  • 大安:龍安坡、十二甲、坡心

1922年(大正11年)4月1日、市の西部にあった15の大字は廃止され、64の町に分割された。東部の10の大字は存続した。

1938年(昭和13年)、松山庄中国語版を編入したことによって新たに松山中国語版頂東勢中国語版下塔悠中国語版上塔悠中国語版旧里族中国語版中坡中国語版五分埔中国語版三張犁中国語版興雅中国語版の9個の大字が加わり、市内の大字の数は合計19となった。

歴代首長[編集]

台北市の成立と同時に、市の首長として台北市尹が設置された。市尹は市政を監督し、任期は規定されなかった。市尹の補佐として助役、会計役、市委員が設置された。市尹は政務上の需要に応じて、台北州知事の承認を得た上で町委員(任期は1年)を任命することができた。1940年(昭和15年)10月28日、官制の改正を受けて台北市尹は台北市長に改称され、市助役が2人に増員された[3]

氏名 写真 在任期間
台北市尹
1 武藤針五郎 1920年9月1日 - 1924年12月23日
2 太田吾一 1924年12月23日 - 1927年7月27日
3 田端幸三郎 1927年7月27日 - 1929年4月20日
4 増田秀吉 1929年4月20日 - 1931年5月16日
5 内海忠司 1931年5月16日 - 1932年3月15日
6 西沢義徴 1932年3月15日 - 1933年8月4日
7 松岡一衛 1933年8月4日 - 1936年10月16日
8 石井龍猪 1936年10月16日 - 1939年12月27日
9 木原円次 1939年12月27日 - 1940年10月28日
台北市長
1 木原円次 1940年10月28日 - 1941年5月14日
2 藤村寛太 1941年5月14日 - 1943年3月29日
3 広谷致員 1943年3月29日 - 1944年5月6日
4 土居美水 1944年5月6日 - 1945年10月25日

市会議員[編集]

第1期(1935年 - 1939年)[編集]

第2期(1939年 - 1945年)[編集]

  • 民選:石堂明治、三好正雄、川本沢一、森方男、林水田、早川齊、蔣渭川中国語版、陳春金、周延寿、西川純、鈴木讓三郎、瀬戸川兼斌、佐藤亀久次、陳錫慶、林江洽、潘迺賢、緒方武歳、李瑞漢、蔡式穀、神村三郎
  • 官選:倉岡彦助、安田勝次郎、貝山好美、八十川清、重田栄治、村崎長昶、柏雄福太郎、陳復礼、池田又四郎、蘇穀保、後藤薰、中島清四、桑田剛助、近藤勝次郎、楊漢龍、中島道一、高敬遠中国語版、張園、肥後誠一郎、黄逢時

機関[編集]

台北州庁
台湾総督府高等法院
台北放送局

在外公館[編集]

教育[編集]

高等教育[編集]

台北帝国大学
台湾総督府高等学校

中等教育[編集]

中学校[編集]

高等女学校[編集]

実業学校[編集]

実業補習学校[編集]

師範学校[編集]

初等教育[編集]

その他[編集]

幼稚園[編集]

  • 私立台北幼稚園
  • 私立愛育幼稚園
  • 私立台北樹心幼稚園
  • 私立大正幼稚園
  • 私立城南幼稚園
  • 私立艋舺幼稚園
  • 私立文化幼稚園
  • 私立錦幼稚園
  • 私立大稲埕幼稚園
  • 私立国民幼稚園
  • 私立台北大谷幼稚園
  • 私立幸幼稚園
  • 私立育英幼稚園
  • 私立稲江幼稚園
  • 私立台北鉄道幼稚園
  • 私立松山幼稚園
  • 私立愛心幼稚園
  • 私立培育幼稚園

書房[編集]

  • 慈恵夜学義塾
  • 尚楽義塾
  • 聚養齋書房
  • 育英書房
  • 映竹齋書房
  • 培徳書房
  • 美学書房
  • 稲江義塾
  • 青年義塾
  • 淡盧書房
  • 培英義塾
  • 修養書房
  • 文安雅書房
  • 六張犁書房

青年学校[編集]

  • 旭青年学校
  • 寿青年学校
  • 南門青年学校
  • 建成青年学校
  • 太平青年学校
  • 台北青年学校
  • 日新青年学校
  • 老松青年学校

医療[編集]

観光[編集]

円山遊園地(円山公園内)
台北公会堂

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 島都與帝都:二、三○年代臺灣小說的都市圖象(1922-1937)”. 2014年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月14日閲覧。
  2. ^ 《臺灣總督府行政區域便覽》
  3. ^ 黄振超 (1987) (中国語). 《臺北市志·卷三·政制志自治篇》. 台北市政府 
  4. ^ “告示第68號”. 台北州報. (1945年3月5日) 
  5. ^ 臺北神學院高等女學部” (中国語). 淡水維基館. 2022年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月10日閲覧。

関連項目[編集]