伊藤勝吉

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伊藤 勝吉(いとう かつきち、1892年1月12日 - 1963年10月1日)は日本騎手調教師阪神競馬倶楽部日本競馬会国営競馬日本中央競馬会)。鳥取県出身。息子に騎手・調教師の伊藤修司が、娘婿にプロ野球選手競馬評論家古川清蔵がいる。  

生涯[編集]

1905年(明治38年)10月5日、14歳で見習騎手として青池良佐厩舎に弟子入りし、1907年阪神競馬場での競走にコノハナという馬でデビューし、初騎乗初勝利を挙げた。しかし翌年には馬券発売が禁止となったため、1910年(明治42年)5月にロシアに渡り、ウラジオストクで5ヶ月間ほど騎乗した。その後帰国し、1911年(明治43年)には、阪神競馬場での3日間の開催で15勝を挙げる活躍ぶりを見せた。1912年(明治44年)には、20歳にして早くも青池から独立して厩舎を開業し、以後、有力馬主にも引き立てられ、騎手・調教師のそれぞれで活躍を続けた。

騎手としては、帝室御賞典を8勝する活躍を見せた他、数々の名馬に騎乗して勝利を重ねた。1929年(昭和4年)10月6日の阪神競馬では、3レース続けてレコード勝ちを収めるという記録も残している。また調教師としても多くの実力馬を管理し、クレオパトラトマスやテツザクラには、自ら騎乗して活躍した。競走馬調教にあたっては鳴尾競馬場内の施設のほかに、自宅敷地内に建設した厩舎と馬場(1周約800メートル)を用いていた。

長年、騎手と調教師を兼務していたが、1938年調騎分離制度が導入されたことにより、1942年に、35年間にわたる騎手を引退し調教師に専念した。

調教師専業になってからは、1949年優駿競走(現在の東京優駿)タチカゼで、オークスをオーカンチトセホープで優勝するなどクラシック6勝を挙げた。また田中好雄松田由太郎清田十一服部正利杉村一馬など22人もの弟子を育てた。

関東の大調教師であった尾形藤吉とは、1927年(昭和2年)に尾形が阪神競馬場に遠征して、伊藤の持ち馬とマッチレースを行って以来の親友で、遠征の際にはお互いの厩舎に馬を預け、自身はお互いの家で寝泊りするなど親しい関係を続けた。また息子の修司を弟子入りさせたこともある。その一方で“東の尾形(藤吉)、西の伊藤(勝吉)”と言われるほどのライバル関係も持っており、尾形は、「長年の付き合いで一度も口論した事もないが、競馬では別であり、お互い手を抜くことなく勝負した。」と語っている。

なお、日本競馬史上唯一、管理馬の優駿競走(日本ダービー)の優勝時に東京競馬場以外の競馬場にいた調教師である(タチカゼ優勝時には京都競馬場にいた)。

1963年10月1日高血圧による合併症の為、阪大付属病院にて死去。10月22日には、閣議において「永年業務に精励し、衆民の模範たるべき者」として、褒章条例による褒章として、遺族追賞の授与が決定し、11月2日に京都競馬場にて授与された。

成績[編集]

騎手成績(判明分)
756戦238勝(明治40年から昭和17年までの勝利数は700を超えると言われる)
調教師
3153戦666勝

調教師としての主な管理馬[編集]

一門の主な系譜[編集]

佐藤勇
新川恵
||高井彰大
高橋成忠
||難波剛健
西橋豊治
||岩崎祐己
高橋直三
上田三千夫
||安藤正敏
||田所清広
田中好雄
領家政蔵
||音無秀孝
||清山宏明
||武英智
松田由太郎
土肥幸広
松田幸春
鬼頭伊助
横山靖
服部正利
服部利之
田島信行
昆貢
||小林慎一郎
清田十一
境直行
||日高三代喜
||石橋守
||藤田伸二
||小坂忠士
||荻野要
柴田光陽
杉村一馬

参考文献[編集]

  • 『優駿』1963年11月号(日本中央競馬会)「伊藤君の死を悼む」尾形藤吉
  • 『優駿』1963年12月号(日本中央競馬会)
  • 「日本調教師・騎手名鑑 1961年版」(日本調教師・騎手名鑑刊行会、井上康文、1961年)