レオ・スターン

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レオ・スターンLeo Stern, 1862年4月5日 – †1904年9月10日)は、イングランドチェリスト1896年にソリストとして、アントニン・ドヴォルザークの《チェロ協奏曲ロ短調》作品104をロンドンで世界初演した。

略歴[編集]

ブライトンにおいて音楽家の家庭に生まれ、本名はレオポルド・ローレンス・スターン(Leopold Lawrence Stern)といった。ドイツ人の父親はブライトン交響協会のヴァイオリニスト兼指揮者であり、イングランド人の母親はピアニストであった。

当初はサウスケンジントン大学理学部化学を学ぶかたわら、フーゴー・ダウベルトチェロの個人指導を受けていた。実業家として1880年から1883年までグラスゴー近郊のソーンリーバンクに勤めるが、結局は化学を投げ出して王立音楽院に入学し、チェロをさしあたってアレッサンドロ・ペッツェに、次いでカルロ・アルフレード・ピアッティに師事した[1]。その後はライプツィヒユリウス・クレンゲルカルル・ダヴィドフの指導も受けた[2][3]

その後アデリーナ・パッティエミール・ソーレイグナツィ・ヤン・パデレフスキなどと演奏旅行を行い、パリではジュール・マスネバンジャマン・ゴダールフランシス・トメらと演奏した[4]ヴィクトリア女王の贔屓の音楽家になり、ウィンザー城バルモラル城オズボーン家でしばしば御前演奏を行った[4]

1895年プラハを訪問する。同地でスターンの演奏ぶりはアントニン・ドヴォルザークの熟知するところなった。ドヴォルジャークは完成したての《チェロ協奏曲ロ短調》をハヌシュ・ヴィハーンに献呈していて、ヴィハーン以外の誰にも初演をしてほしくはないと望んでいた[5]にもかかわらず、譜面をめぐってヴィハンとの間で軋轢が生じていたために、初演の名誉はスターンに明け渡されることとなった。《チェロ協奏曲ロ短調》の世界初演は1896年3月19日にドヴォルジャーク自身の指揮によってロンドンクィーンズ・ホールにおいて行われた。それから3週間後のプラハ初演も作曲者本人の指揮とスターンの独奏で行われ[6]ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団[4]ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とも共演を果たした(ちなみにスターンは、ライプツィヒに招待されてゲヴァントハウス管弦楽団に客演した最初のイギリス人演奏家である)。その後ポツダムに召喚されて、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のために御前演奏を行なった[4]1897年から1898年までアメリカ合衆国カナダに演奏旅行を行ない、シカゴセオドア・トマスのオーケストラや、ボストン交響楽団ニューヨーク・フィルハーモニー協会と共演した[4]ニューヨークでは、1897年3月5日にドヴォルジャークの《チェロ協奏曲ロ短調》の米国初演を行っている[7]

1904年、ロンドンにて42歳で死去した。

王立音楽院では現在、チェロ科にレオ・スターン賞(Leo Stern Award)が設立されている[8]

愛器[編集]

スターンが愛用したチェロは以下の3台である。

私生活[編集]

スターンは2度結婚しており、2度とも相手はアメリカ人女性であった。

1894年[9]パブロ・デ・サラサーテの愛弟子の元神童ヴァイオリニストで、パリ音楽院を首席で卒業したネッティ・カーペンター(1869年ごろ?~歿年不詳)と結婚している。スターンはカーペンターの再婚相手であり[10]、カーペンターが先の結婚で儲けた息子はサラサーテが名付け親だった。サラサーテはカーペンターに、金の浮き彫りが施された弓を贈っている[11]

ネッティ夫人と離婚後の1898年[9]、著名なコロラチューラ・ソプラノのスーザン・アダムスと再婚した。スターンは大衆歌謡をいくつか創っており、そのうち《好色娘(Coquette)》をアダムスが録音した[12]

脚註[編集]

参考文献[編集]

  • Grove's Dictionary of Music and Musicians, 5th ed, 1954