マルワーン2世

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マルワーン2世688年 - 750年8月6日)は、ウマイヤ朝の第14代(最後)のカリフ(在位:744年 - 750年)。

生涯[編集]

第4代カリフ・マルワーン1世の子・ムハンマドを父とする。

ウマイヤ朝では第10代カリフのヒシャームが死去すると、反ウマイヤ勢力の運動が活発化した。当時はイラク総督だったマルワーンは744年に先代のイブラーヒームに反乱を起こし、武力でカリフ位を奪い取ったマルワーン2世は王朝再建のために武断政治を強行する。

ウマイヤ朝の首都はダマスカスであったが、マルワーン2世はイラクハルラーンに遷都した。これは自らの支持基盤の強化や既成権力からの逸脱などを目的にしていたとされるが、この遷都に対して既成権力者層からの不満が増大し、シリア各地で反乱が勃発した[1]。だがマルワーンはそれらの反乱をことごとく鎮圧し、ホムスバールベク、ダマスカス、エルサレムなどをことごとく制圧・破壊してしまう。特にルサーファの反乱鎮圧では敵の将兵3万人を虐殺してしまった。

このような中でアッバース家が中心となってアッバース革命が勃発する[2]。特にホラーサーンで反乱を起こしたアブー・ムスリムの勢力拡大は目覚しく、749年にはクーファが落とされるに至った。マルワーンはフマイマ村でアッバース家の家長であったイブラーヒーム・イブン・ムハンマドを捕らえて処刑したが、その弟のアブー・アル=アッバースら14名を取り逃がしてしまう失敗を犯した。

アブーらはクーファで勢力を盛り返し、750年には大ザーブ川の戦いで決戦に及ぶ。兵力ではマルワーンが優勢だったが[3]、ムスリムの巧妙な戦術とウマイヤ軍での将兵の離反が相次ぎ、大敗してしまう。マルワーン2世はシリアに逃亡するが、アッバース軍の追討を受けてここでも離反者が相次いでエジプトに逃亡。最後は上エジプトのブシリスで遂に力尽き、アッバース軍に殺害され[4]、ここにウマイヤ朝は滅亡した。63歳没。

このとき、ウマイヤ家の一族の多くが殺害されたが、第10代カリフ・ヒシャームの孫であるアブド・アッラフマーン1世イベリア半島へ逃れ、756年後ウマイヤ朝を建てた。

マルワーン2世はウマイヤ朝最後の君主であったことから、暴君・暗君として評価が悪い。確かに遷都を強行して反乱勢力を虐殺するなどして多くの離反者を招くなど、政略では失敗ばかり犯している。だが軍人としてはかなりの力量を持っており、大ザーブ川の決戦で敗れるまでは多くの戦いで勝利しており、軍略に長けた政略下手と見ることができる。

脚注[編集]

  1. ^ この反乱でシリアの民の連帯感が喪失し、初代ムアーウィヤ以来依拠してきたシリアの瓦解、ウマイヤ朝の自己崩壊となった
  2. ^ イラク方面の反乱は747年に一応鎮圧していたが、ホラーサーン総督のナスルが革命に備えて増援を求めた際、マルワーン2世は東ローマ帝国の侵略を恐れてこれを拒絶した
  3. ^ ウマイヤ軍は1万2000人だったが、士気が低かった
  4. ^ 首級はクーファに送られた


先代:
イブラーヒーム
ウマイヤ朝
744年 - 750年
次代:
アブド・アッラフマーン1世