ペン・トゥオク

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カンボジアの政治家
ペン・トゥオク
ពេញ ធួក
Penh Thuok
生年月日 1934年?
没年月日 1978年12月
死没地 カンボジア、プノンペン
所属政党 カンプチア共産党(クメール・ルージュ)

民主カンプチアの旗 民主カンプチア
経済担当副首相
内閣 ポル・ポト内閣
在任期間 1976年4月 - 1978年
国家幹部会
議長
キュー・サムファン

王国民族連合政府
交通・産業担当副首相
内閣 ペン・ヌート内閣
在任期間 1975年8月13日 - 1976年4月
国家元首 ノロドム・シハヌーク
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ペン・トゥオククメール語: ពេញ ធួក / Penh Thuok, 1934年? - 1978年12月)は、カンボジア政治家ポル・ポトの長年の側近で、民主カンプチア政権においては経済担当副首相を務めた。カンプチア共産党中央委員会常務委員。1978年、粛清

別名、ソク・トゥオク(Sok Thuok)、ヴォン・ヴェトវ៉ន វេត / Vorn Vet)。

経歴[編集]

裕福な家庭の出身で、フランスへの留学経験を持つ[1]。1940年代末に始まる抗仏戦争に参加し、1954年5月には国境地域においてサロト・サル(ポル・ポト)に出会い、またトゥー・サムートの下で政治訓練を受けた[2]。同年7月の休戦協定成立後はプノンペンにおいて党活動を開始し[3]、以降ポル・ポトの弟分として、その強い引きで党の重要ポストに昇進する。

50年代後半から60年代前半、私立チャムルンビチア高校で教師を務め、ポル・ポトも同じ職場であった[4]1963年2月、カンボジア労働党(後のカンプチア共産党、クメール・ルージュ)党大会においてポル・ポトが党書記に選出されると、同時にトゥオクも党中央委員に抜擢され[5][6][7]、また同年よりプノンペン党委員会の責任者も務めた。

反ロン・ノル闘争期[編集]

1970年3月、右派ロン・ノル将軍がクーデターを起こすと、追放されたシハヌーク元首は5月4日、北京において「カンボジア王国民族連合政府」を樹立。トゥオクも国内に留まりながら国家安全及び内務担当次官に任命された[8]。1971年1月、党中央委員会の集会において、プノンペン周辺に新設された「特別地域」書記に任命され、以降同地域の解放闘争を指揮した[9][10]

1975年4月17日にクメール・ルージュがプノンペンを制圧すると、その3日後の4月20日朝、ポル・ポトに同行してプノンペン入りした[11]

民主カンプチア政権[編集]

1975年8月、王国民族連合政府の交通・産業担当副首相に任命され[12]、経済関係の統括責任者となる。同年9月の時点では、党中央委員会常務委員の地位にあった[13]。同年10月、党常務委員会において事実上の「閣僚」ポストの配分が行われると、トゥオクは産業・鉄道・漁業担当となった[14]

1976年1月に民主カンプチア憲法が発布された後、4月14日にポル・ポト内閣の経済担当副首相に任命された[15]。その下には農業工業商業などの6委員会の委員長(閣僚級)が配置され[15]、経済関係全体を統括する超閣僚の役割が与えられた[16]1977年9月から10月には、ポル・ポトを団長とする党・政府代表団の一員として、中国と北朝鮮を訪問している[17][18]

1978年11月1日から2日の党大会においては党中央委員会常務委員に再選出され、「経済および計画」を担当し、序列第5位とされた[19]

粛清[編集]

しかし党大会の翌朝、タ・モクコン・ソファルとの会合中に部屋に兵士が乱入し、ソファルとともに逮捕され、S21監獄に連行された。[20][21]。また、別証言によれば、ヌオン・チアの命令を受けたタ・モクが、その自宅で「個人的に逮捕」し連行した、とされる[22]。罪状はクーデターを計画したこと、だった[23]

同年12月の供述書によれば、既に自殺したソー・ピム東部地域書記の名を挙げて、2人とも共産党に反対する「カンボジア労働者党」のメンバーとして破壊活動をしたと自白している[24]。また、ケ・ポクのことも「反逆者」として名指ししている[25]

トゥオクは間もなく処刑され、遺体は埋められた。しかし、ヌオン・チアの命令により遺体は掘り起こされ、処刑の証拠として写真が撮影された[26]

家族[編集]

妻はプルム・パル、別名ビン。1978年に逮捕され、処刑[27]

娘は党高級幹部を務めたペン・ソペアップ。1978年、父親とともに逮捕された[28]。同年、処刑。

脚注[編集]

  1. ^ 山田(2004年)、19ページ・表1。
  2. ^ チャンドラー(1994年)、79ページ。
  3. ^ 山田(2004年)、24ページ。
  4. ^ 山田(2004年)、26ページ。
  5. ^ イエン・サリの証言によれば、常務委員はサロト・サル、ヌオン・チア、ソー・ピムイエン・サリの4人とされる。ショート(2008年)、210ページ、注と出所67ページ。
  6. ^ ヌオン・チアの未発表回顧録によれば、常務委員はサロト・サル、ヌオン・チア、ソー・ピムイエン・サリの4人とされる。ヘダー、ティットモア(2005年)、102ページ・注184。
  7. ^ 山田寛によれば序列第5位の政治局員(党常務委員)とされる。山田(2004年)、28ページ・表2。
  8. ^ ショート(2008年)、316ページ・原注5。
  9. ^ ショート(2008年)、333-334ページ。
  10. ^ 当時はソン・センドッチの上役であった。山田(2004年)、123ページ。
  11. ^ ショート(2008年)、437ページ。
  12. ^ ショート(2008年)、464ページ。
  13. ^ イエン・サリの証言による。ヘダー、ティットモア(2005年)、95ページ。
  14. ^ チャンドラー(1994年)、178ページ。
  15. ^ a b 山田(2004年)、98ページ。
  16. ^ 山田(2004年)、123ページ。
  17. ^ チャンドラー(1994年)、221ページ。
  18. ^ 1977年 インドシナ重要日誌(アジア動向データベース)
  19. ^ ヘダー、ティットモア(2005年)、96ページ。
  20. ^ イエン・サリの証言による。ショート(2008年)、593ページ。
  21. ^ 自身の供述書によれば、1978年11月2日にS21に収容された、としている。ヘダー、ティットモア(2005年)、102ページ・原注186。
  22. ^ ドッチの証言による。ヘダー、ティットモア(2005年)、152ページ、202ページ・注395。
  23. ^ チャンドラー(2002年)、157ページ。
  24. ^ チャンドラー(2002年)、153ページ、331-332ページ原注(89)。
  25. ^ ヘダー、ティットモア(2005年)、88ページ・原注130。
  26. ^ ドッチの証言による。ヘダー、ティットモア(2005年)、114ページ。
  27. ^ チャンドラー(1994年)、355ページ。
  28. ^ チャンドラー(2002年)、190ページ。

参考文献[編集]

  • 山田寛 『ポル・ポト<革命>史-虐殺と破壊の四年間』 講談社<講談社選書メチエ305>、2004年。ISBN 9784062583053
  • フィリップ・ショート 『ポル・ポト-ある悪夢の歴史』 白水社、2008年。ISBN 9784560026274
  • デービット・P・チャンドラー 『ポル・ポト伝』 めこん、1994年。ISBN 9784839600884
  • デーヴィッド・チャンドラー 『ポル・ポト 死の監獄S21-クメール・ルージュと大量虐殺』 白揚社、2002年。ISBN 9784826990332
  • スティーブ・ヘダーブライアン・D・ティットモア 『カンボジア大虐殺は裁けるか-クメール・ルージュ国際法廷への道』 現代人文社、2005年。ISBN 9784877982652
  • Bartrop, Paul R. (2012). "VORN VET". A Biographical Encyclopedia of Contemporary Genocide: Portraits of Evil and Good. ABC-Clio Inc. pp. 326–327. ISBN 9780313386787. 2013年9月12日閲覧

外部リンク[編集]