ベアトリーチェ・チェンチ

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グイド・レーニ作と伝えられる『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』。イギリスの詩人シェリーは1818年コロナ宮でこの絵を見て、彼女の悲劇を着想した。頭にターバンを巻いているのは、斬首に際して髪の毛で斧の刃が滑るのを防ぐため。

ベアトリーチェ・チェンチBeatrice Cenci, 1577年2月6日 - 1599年9月11日)は、イタリアの貴族の女性。ローマで起こった尊属殺人事件(父親殺し)裁判の主役として知られている。その悲劇的な最期から、多くの文学・芸術の題材とされて来た。

伝記[編集]

ベアトリーチェは貴族のフランチェスコ・チェンチの娘として生まれた。フランチェスコはその暴力的気性と不道徳きわまりない行動から、教皇庁裁判官と一度ならず悶着を起こしていた。一家はローマのレゴラ区にあったチェンチ宮に暮らしていた。チェンチ宮はローマのユダヤ人居住区の端にある、中世の要塞跡に建てられたものだった。家族は他に、兄ジャコモ、父親の2番目の妻ルクレツィア・ペトローニ、そしてその子供でまだ幼かったベルナルドがいた。一家は、ローマの北、リエーティ近郊の小さな村に「ペトレッラ・デル・サルト要塞」という名前の城を所有していた。

伝えられるところによれば、父フランチェスコは妻と息子たちを虐待し、ベアトリーチェとは近親姦の関係にあった。ある時、父フランチェスコが別の罪で投獄された。貴族であったことから、恩赦を受け、すぐに釈放されたが、その時、ベアトリーチェは頻繁に受ける虐待を当局に訴えた。ローマ市民は誰でもフランチェスコがそういう人間だということは知っていたが、何の手も打たなかった。父フランチェスコは娘が自分を告発したことに気付き、ベアトリーチェと妻ルクレツィアをローマから追い出し、田舎の城に住まわせた。ベアトリーチェ、ルクレツィア、そして2人の兄弟は、こうなったらもう父親を亡き者にするしかないと決心し、全員でその計画を練った。1598年、父フランチェスコが城に滞在中、2人の召使い(1人は後にベアトリーチェの秘密の恋人となった)の助けを借り、父親に麻薬を盛ったが、殺すにはいたらなかった。やむなく、家族全員で父親を金槌で殴り殺し、死体はバルコニーから突き落とした。ベアトリーチェは事故だと主張したが、誰も信じる者はなかった。

父親の不在に気付いた官憲は事件の真相の調査を開始した。ベアトリーチェの恋人は拷問を受け死んだが、真相は一言も喋らなかった。家族の友人(その人は殺人に気付いていた)は危険を避けるため、もう1人の召使いを殺すよう命じた。しかし計画は露見し、ベアトリーチェたちは逮捕され、有罪判決を受け、死刑を宣告された。ローマの人々は、殺人の動機を知って、裁判所の決定に抗議した。それで処刑は短期間延期されることになったが、ローマ教皇クレメンス8世はまったく慈悲を示さなかった(チェンチ家の財産を懐に入れるため処刑を決定したともされる)。1599年9月11日未明、被告たちはサンタンジェロ城橋に移送され、そこに処刑台の足場が組まれた。ジャコモは木槌で手足を4隅に打たれ、四つ裂の刑に処された。ルクレツィアとベアトリーチェは順番に斬首された。唯一若い弟だけは死刑を免れたが、財産を没収され(その財産は教皇の家族のものとなった)、刑務所に戻される前、処刑台で家族の処刑を見せられた。ベアトリーチェの遺体はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬された。

ローマの人々にとって、ベアトリーチェは、傲慢な貴族社会へのレジスタンスの象徴となった。そして、毎年、彼女が処刑される日の前夜、ベアートリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持って橋に戻ってくるという伝説が生まれた。

ベアトリーチェが登場する作品[編集]

ハリエット・ホスマー『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』

ベアトリーチェ・チェンチは、文学や音楽などの作品でよく取り上げられている。

文学[編集]

音楽[編集]

美術[編集]

映画[編集]

参考文献[編集]