フリードリヒ・フランツ・ツー・メクレンブルク

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幼児期のフリードリヒ・フランツ

フリードリヒ・フランツ・ツー・メクレンブルクFriedrich Franz Herzog zu Mecklenburg, Erbgroßherzog von Mecklenburg, 1910年4月22日 シュヴェリーン - 2001年7月31日 ハンブルク)は、ドイツメクレンブルク=シュヴェリーン大公国の大公世子(Erbgroßherzog)で、メクレンブルク=シュヴェリーン大公家家長(1945年 - 2001年)。フリードリヒ・フランツ5世Friedrich Franz V.)とも呼ばれる。全名はフリードリヒ・フランツ・ミヒャエル・ヴィルヘルム・ニコラウス・フランツ・ヨーゼフ・エルンスト・アウグスト・ハンス(Freidrich Franz Michael Wilhelm Nikolaus Franz-Joseph Ernst August Hans)。2001年の彼の死と同時に、メクレンブルク家の正嫡の系統は断絶した。

生涯[編集]

最後のメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ4世と、その妻でハノーファー王太子・カンバーランド公エルンスト・アウグストの娘であるアレクサンドラの間の第1子、長男として生まれた。1918年11月のドイツ革命と同時に君主制が崩壊したため、大公世子の身分を失った。

1931年5月、父の反対を押し切って国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)に入党し、同党の親衛隊(SS)に加わり、1936年には親衛隊大尉に昇進した。第2次世界大戦中はドイツの占領地域デンマークに駐屯し、デンマーク駐在のドイツ全権大使ヴェルナー・ベストの副官を務めた。フリードリヒ・フランツはデンマーク王妃アレクサンドリーネの甥であった。1944年の夏の数ヶ月間、フリードリヒ・フランツは武装親衛隊の戦車軍団に所属している。

フリードリヒ・フランツは1941年にブレスラウ出身の下級貴族の娘カリン・フォン・シャーパー(1920年 - )と結婚した。この結婚はメクレンブルク家の家内法では貴賤結婚と見なされ、1943年にメクレンブルク大公家が招集した評議会の決定により、フリードリヒ・フランツは大公家の資産の相続権を弟のクリスティアン・ルートヴィヒに譲ることを余儀なくされた。彼はカリンと1967年にいったん離婚したが、10年後の1977年にカリンと復縁した。カリンとの間に子供は無かった。

1996年に弟のクリスティアン・ルートヴィヒが男子のないまま死ぬと、フリードリヒ・フランツはメクレンブルク=シュヴェリーン家最後の男子となることが確実となった。また、メクレンブルク=シュトレーリッツ家の正嫡の家系は1934年に断絶しており、継承権のない分家カーロフ伯爵家が養子に入って家名を受け継いでいるに過ぎないため、メクレンブルク家全体で見ても最後の正嫡の男子であった。フリードリヒ・フランツは2001年に亡くなり、ドイツで最も古い諸侯家門だったメクレンブルク家の正嫡は断絶した。

参考文献[編集]

  • Petropoulos, Jonathan (2006). Royals and the Reich: The Princes Von Hessen in Nazi Germany. Oxford University Press. ISBN 0195161335. 
  • Huberty, Michel; Alain Giraud, F. et B. Magdelaine. L'Allemagne Dynastique, Tome VI : Bade-Mecklembourg. ISBN 9782901138068. 
先代:
フリードリヒ・フランツ4世
メクレンブルク[=シュヴェリーン]大公家家長
1945 - 2001
次代:
断絶(ヴィトシュトック条約によりプロイセン王家家長が権利を継承したとされる)
ボルヴィン(元カーロフ伯爵系に継承権を認める場合)