ジグミ・シンゲ・ワンチュク
| ジグミ・シンゲ・ワンチュク |
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| ブータン国王 | |
国王の肖像が描かれた100ニュルタム紙幣
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| 戴冠 | 1974年6月2日 |
| 先代 | ジグミ・ドルジ・ワンチュク |
| 次代 | ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク |
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| 出生 | 1955年11月11日(56歳) |
| 実名 | ジグミ・シンゲ・ワンチュク |
| 父親 | ジグミ・ドルジ・ワンチュク |
| 母親 | ケサン・チョーデン・ワンチュク |
| 配偶者 | |
| 子女 一覧参照
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| 信仰 | チベット仏教 |
ジグミ・シンゲ・ワンチュク(ゾンカ語:
, ラテン文字転写: Jigme Singye Wangchuck, ワイリー方式: 'Jigs med Seng ge dBang pyug、ジグメ・シンゲ・ワンチュクとも、1955年11月11日 - )は、第4代ブータン国王。1972年に16歳で即位した。開明的な国王として知られ、強大な国王の権限を徐々に縮小する民主化政策を進めた。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1955年11月11日ティンプーのデチェンチョリン宮殿にて誕生した。インドとイギリスに数年間留学した後、国王の為にパロに設立されたウゲン・ワンチュク・アカデミーで、少数の学友と共に、内外から厳選された教師団による教育を受けた。1971年に計画委員会議長に就任し、1972年には、実質上の皇太子となるトンサ・ペンロプに任命された。
同年7月21日、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクが外遊先であるケニアのナイロビで崩御したため、急遽第4代国王に即位。この時点で彼はまだ16歳であり、世界最年少の国王として話題となった。2年後の1974年6月2日、戴冠式を迎えた。1988年10月31日に結婚。名門の出身ウギェン・ドルジと、同じく名門の出であるトウジ・ザム夫人の間の6人姉妹のうち、次女から五女の4姉妹を娶り、5男5女をもうける。1999年には戴冠25周年を迎えた。
[編集] 政策
統治面においては、その手腕を大いに発揮し、第3代国王の時代から進められてきた、国際社会参画と国内政治改革を一層推進した。内政に関しては、保守的な面と革新的な面を併せ持ち、国民総生産にかわる「国民総幸福量」 (GNH) という概念を提唱したことでも有名である。
革新的な面としては、1998年以降の国王権限の縮小を挙げる事ができる。行政の実権の返上と国家元首への専念を基本とし、国民議会に国王不信任決議の権利を付与し、国王定年制を提案、閣僚任命権を放棄し国会議員による無記名信任投票とし、任期を5年に定め、内閣を刷新した。また、行政の実権を担う首相職を設立し、各閣僚が任期1年の輪番制で首相を担当するというシステムを導入した。また、急速な近代化を憂い、「急ぎ過ぎない開発」を主眼とした自然環境の保護を進めている。
なお、国王の権限縮小は第3代国王の時代から徐々に実施されてきており(例えば1968年の国民議会議決拒否権の放棄、1969年の国民議会への国王不信任決議権付与)、形式上は絶対君主国家ではなくなった。
一方、保守的な面としては、国家的アイデンティティの補強が挙げられる。1985年の公民権法改正以降、急速な西欧化に苦慮した政府は、1989年に「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系の民族衣装着用の義務付け、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の遵守などを実施した。これに不満を持ったネパール系住民が1988年以降反王制運動や反政府運動を繰り広げ、後に国外流出を招き、「南部問題」としてブータン政府を苦悩させた。
[編集] 譲位
2006年12月9日に勅令を出し、14日に長男のジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクに譲位した。
[編集] 関連項目
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ジグミ・シンゲ・ワンチュク
ワンチュク家
1955年11月11日 -存命中 |
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| 爵位 | ||
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| 先代: ジグミ・ドルジ |
第4代:1972 - 2006 |
次代: ジグミ・ケサル・ナムゲル |