ジェームズ・ヤング

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ジェームズ・ヤング
James Young
Thomas Whitcombe - H.M.S. 'Pique', 40 guns, Captain C.H.B. Ross capturing the Spanish Brig 'Orquijo', 18 guns, 8th. February 1805.jpg
ヤングが指揮した艦の1隻ピク(左側) トマス・ホイットコンブ
生誕 1762年
死没 1833年3月8日
グロスタシャー、バートン・エンド・ハウス
所属組織 British-White-Ensign-1707.svgイギリス海軍
軍歴
最終階級 白色中将
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ジェームズ・ヤングJames Young1762年 - 1833年3月8日)はイギリス海軍の士官である。フランス革命戦争ナポレオン戦争に従軍し、最終的に白色中将にまで昇進した。

ヤングは1762年に海軍士官の子として生まれた。父と腹違いの兄の後を追って海軍に入り、フランス革命戦争の初期、ジョン・ジャーヴィス西インド諸島で任務に就いていた時に、指揮官(海尉艦長)に昇進した。最初に指揮したのは火船であったが、同時に74門艦をも指揮しており、その後勅任艦長英語版となってフリゲート艦の指揮を任された。巡航中に私掠船の拿捕に成功して他の艦に転属となり、1799年の後半には、スペインフリゲート艦を追跡してそのうちの1隻を拿捕した。このフリゲート艦はスペインの植民地から高価な貨物を積んでおり、その拿捕に関与した艦長たちはかなりの富を手にし、乗員たちもいつもの給料に比較すると巨額の金を手にした。

その後フランス革命戦争が終わるまでは、フリゲート艦を指揮して、この艦をアミアンの和約締結時に退役させた。その後ナポレオン戦争の勃発とともにすぐ第一線に戻り、1807年までは74門艦の指揮を執って、1807年のコペンハーゲンの戦い英語版に参戦した。ナポレオン戦争の終わりごろには将官となり、1830年にはさらに昇進して白色中将となり、その3年後に死去した。

家族と指揮官着任[編集]

ジョン・ジャーヴィス

ジェームズ・ヤングは1762年、海軍軍人の家族に生まれた。父ジェームズは海軍士官で後に中将に昇進し、母ソフィアはジェームズの2度目の妻だった[1]父と最初の妻エリザベス・ボルトンの子供である腹違いの兄、ウィリアム英語版も海軍での任務に従事して、赤色中将にまで登り詰めた[2]。ジェームズ・ヤングも父と兄の後を追って海軍に入り、入隊後数年たった1794年に、ジョン・ジャーヴィスから指揮官をまかされた[3]。フランス革命戦争が始まって間もないころだった。その前に、ヤングは西インド諸島でジャーヴィスと任務についており、イギリスへ戻る途中のリプライザルの艦上で、火船コメット英語版の指揮を命じられた[4]。ヤングは、1795年6月から短期間、少将に昇進したクリストファー・メイソンの後任としてゼラスの指揮を執った[3][5]。その後ヤングは地中海へ向かい、コメットの指揮を再開して、1795年10月5日に勅任艦長となった[3]

1796年、ヤングは32門艦グレーハウンド英語版を指揮して北海を航行し、その後英仏海峡に向かって、複数の私掠船と交戦して見事に勝利を納め、12月17日午前4時にバルフルール岬沖でアバンチュールを、12月18日午前7時ににビーチー・ヘッド英語版沖でタルターヌをそれぞれ拿捕した[3][6]。アバンチュールはブリッグ船で、16台の4ポンド砲を搭載し、乗員が62人いた。指揮官はシティザン・ペルティエだった。この船はカレーを出てから2日目で、初めての航海であり、まだ捕獲した船はなかった[7]。タルターヌもブリッグ船で、16台の4ポンド砲を積んで、乗員が60人いた。こちらはディエップから出港していた。この私掠船もまだ何も捕獲していなかった。拿捕報告によると、ヤングは18門スループ艦のプローヴァー英語版のチェシャー艦長に賛辞を送っている。プロ―ヴァーは、ヤングの私掠船追跡を見ていて、タルターヌの退路を巧みに断ち切ったのである[8]。ヤングは1797年3月までグレーハウンドの指揮を執った後、32門艦ユニコーン英語版の指揮官となった[9]

エタリオンとテティスの拿捕[編集]

1799年10月16日の、エタリオンとテティスの交戦 トマス・ホイットコンブ

ユニコーンの次には、1799年2月に38門艦エタリオン英語版を指揮した。1799年10月16日午前3時、エタリオンは海上に3つの帆影を認めた[3][10]。風下へ回ったところ、それは2隻の敵のフリゲート艦と、ウィリアム・ピエールポイント艦長の指揮のもと、それを追跡している38門艦のナイアッド英語版だった。ヤングも追跡に加わり、その翌朝、追跡側のイギリス艦に新たにヘンリー・ディグビー英語版艦長のアルクメン英語版も加わり、また追跡中にジョン・ゴア英語版艦長のトリトン英語版もやって来て、トリトンは4隻目として後方から追跡に加わった。ピエールポイントは、しんがりにヤングのエタリオンを残して、一番前にいた艦に交戦するよう信号を送り、午前7時に、スペイン艦とわかったフリゲート艦2隻を引き離した。エタリオンは後ろの方のフリゲート艦を追いかけた。双方とも船尾と艦首砲から砲撃し、接近した後に片舷射撃を行い、スペイン艦は降伏した。この艦は36門艦テティスであることがわかった。12ポンド及び6ポンド砲を何台か搭載しており、乗員が250人いた。指揮官はドン・フアン・メンドーサで、ベラクルスからスペインに戻る途中で、141万1526ドル相当の価値の貨物とココアを積んでいた。エタリオンの方は、追跡中に死傷者は出なかったが、テティスでは1人が戦死し、9人が負傷していた。一方でナイアッドは、アルクメンとトリトンと共にもう1隻の敵艦を探し出して捕獲した。この艦はサンタ・ブリガーダで、やはり高価な品物を積み込んでいた。各艦長は賞金として、4万730ポンド18シリングを得た[11][注釈 1]

拿捕により支払われた額があまりに大きかったため、ポーツマスをうろつきまわっていた各艦の乗員たちはこういわれた。「彼らは帽子に紙幣を何枚も突っ込み、時計を買ってそれを飛ばして遊び、黄金のレースを帽子に飾らないやつは尻を蹴られると言う法律を作る。そのため銀の飾りをつけたやつは、金目のものはすべて盗まれたと言って逃げることしかできない。でもそいつは商人には、金をやるから黄金のレースをつけろと強要する」[13]それぞれの艦の水夫たちが得た金額は182ポンド4シリング9ペンスで、これは彼らの10年分の給料と同額だった[14]

ピクとヴァリアントの指揮[編集]

1807年のコペンハーゲンの海戦

1800年6月、ヤングは36門艦のピク英語版をまかされ、フランス革命戦争が終わるまで地中海で指揮を執った[3][15]1801年6月5日、ヤングはオノレ・ジョゼフ・アントワーヌ・ガントーム英語版指揮下のフランスの大規模な護送船団が、陸軍兵を乗せてエジプトへ向かっているのに出くわした。この艦隊はしばらくピクを追いかけたが、捕獲することはできなかった。追跡を逃れたヤングは、その後フランスの動きを報告するため、ジョージ・エルフィンストーン提督の元に向かった[16]。ヤングはその後、戦争が終わってピクを退役させるためにイギリスに向かい、1802年7月2日に帰国した。ナポレオン戦争勃発後は、1807年4月になってから第一線に戻って、74門艦ヴァリアントの指揮をゆだねられた[3][17]。ヤングは、1807年のコペンハーゲンの戦い英語版ウィリアム・エシントン英語版少将の艦隊と共に出向き、7月7日にコペンハーゲン沖についた[16]

将官への昇進と晩年[編集]

1814年、ヤングは少将に昇進し、1830年には中将となった。その後白色中将となり、1833年3月8日にグロスターシャーのバートンエンドハウスで死去した、67歳だった。ヤングは1802年ジブラルタルに駐留していた時に、工兵隊英語版のファイアーズ大佐(のちに中将)の娘と結婚した。この妻はbeauty of the rock(エンゼルフィッシュの一種)として知られ、2人には多くの子供が生まれた[3]

注釈[編集]

  1. ^ 海尉は5091ポンド7シリング3ペンス、准士官は2463ポンド10シリング9ペンス、下士官は791ポンド17シリング、水夫海兵は182ポンド42シリング9ペンスである[12]

脚注[編集]

  1. ^ “Young, James (1717–1789)” (subscription required for online access). Oxford Dictionary of National Biography. doi:10.1093/ref:odnb/30265. http://www.oxforddnb.com/view/article/30265/?back=,30285,30265,30285,30265,30285. 
  2. ^ “Young, Sir William (1751–1821)” (subscription required for online access). Oxford Dictionary of National Biography. doi:10.1093/ref:odnb/30285. http://www.oxforddnb.com/view/article/30285/?back=,30285,30265. 
  3. ^ a b c d e f g h The Gentleman's Magazine. p. 562. 
  4. ^ Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 369. 
  5. ^ Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 51. 
  6. ^ Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 183. 
  7. ^ The Universal Politician. p. 450. 
  8. ^ The Edinburgh Magazine. p. 317. 
  9. ^ Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 132. 
  10. ^ Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 136. 
  11. ^ The European Magazine. p. 409. 
  12. ^ Hannay. Admiral Blake. p. 133. 
  13. ^ Hannay. Admiral Blake. pp. 133–4. 
  14. ^ Rodger. The Command of the Ocean. p. 523. 
  15. ^ Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 153. 
  16. ^ a b James. The Naval History of Great Britain. 3. p. 75. 
  17. ^ Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 72. 

参考文献[編集]