ケオ・メアス

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ケオ・メアスクメール語: កែវ មាស / Keo Meas, 1926年[1] - 1976年)は、カンボジア共産主義活動家、政治家カンプチア労働者党(後の共産党)中央委員。1976年、粛清

経歴[編集]

プノンペン教員養成学校4年次の1946年、ソン・シチャン (Son Sichan) に勧誘され、インドシナ共産党に入党[2]。学校を中途退学した後、スヴァイリエン地方の抵抗運動に参加し[3]、1950年にはクメール・イサラク統一戦線英語版内の指導的人物となった[4]。1951年、プノンペン行動委員会人民委員に任命[3]

1952年7月の一斉検挙により党組織が破壊されると、その後メアスは市党支部の再建に取り組んだ[5]。同年12月、ウィーンにおいて世界各国人民平和会議が開催されると、クメール・イサラクを代表して出席した[6]

1953年には東部地域のトゥー・サムートの司令部で働き、新しいラジオ「自由カンボジアの声」の責任者となった。この時、原稿書きを手伝ったのがサロト・サル(ポル・ポト)であった[3]

プラチアチョン活動期[編集]

1954年の休戦後、メアスはジュネーヴ協定履行共同委員会において、クメール・イサラクを代表し、ベトミン側委員として参加した[7]。また同年、クメール人民革命党プノンペン支部支部長補佐に任ぜられ、「準合法」活動を担当することになった[8]。人民革命党は秘密政党であったため、メアス、ノン・スオンおよびペン・ユースは、休戦協定に基づく1955年選挙に合わせ、党の合法的フロント組織を形成する任務が与えられた。1954年末、彼らは「クメール・トース」(クメール抵抗組織)の名称で登録しようとしたが、当局により却下された[9]。1955年初め、より中立的な「クロム・プラチェアチョン」(人民派)として登録した[10]。しかし、同年9月の選挙では政府側の圧力と妨害により、シハヌーク前国王の率いる「サンクム」が圧勝し、プラチアチョンは議席を獲得できなかった[11]

1956年5月、ケオ・メアスはノン・スオン、ノプ・ボファン (Nop Bophann) と共に 、「プラチアチョン」を週刊新聞として活動再開させた[12]

クメール人民革命党が危機の時代を過ぎたとき、トゥー・サムートは4人のメンバーからなる党指導部(「都市委員会」と呼ばれた)を再組織した。ケオ・メアスも同委員会の一人だと思われるが、しかし彼に代えてサロト・サル(ポル・ポト)を第4の委員とする報告も存在する[13]

1958年3月の議会選挙時、「クロム・プラチアチョン」は敢えて5人の候補を擁立し、メアスはプノンペン選挙区において立候補した。しかし、過酷な政治情勢により、「クロム・プラチアチョン」候補で全ての選挙活動を成し遂げることが出来たのは、ケオ・メアスただ一人であった。しかし、得られた得票は、公式結果では396票だけであった[14]。選挙の直後、メアス地下に潜り、プノンペンを離れた。そしてプノンペン党支部書記はポル・ポトが引き継いだ[15]

1960年9月のクメール人民革命党第2回党大会において党名は「カンプチア労働党」に変更されるとともに、ケオ・メアスは党中央委員に選出され、党内序列第6位となった[16][17]。しかし、1963年2月の党大会においては、党中央委員会から外された[18][17]

1963年、ベトナム国境地帯の「第100局」基地で仲間と合流し、1965年まで過ごすことになる[19]

反政府闘争期[編集]

1968年後半、ケオ・メアスはハノイに旅立ち、カンボジアにおいて進行中の党の闘争に対し、亡命共産党指導部からの支援を求めた。彼は古参指導者ソン・ゴク・ミンおよびベトナムの当局者と会談したが、シハヌーク体制に対する武装蜂起の支援へと動かすことはできなかった。シハヌークに対し、ベトナムは「より小さな悪」と考えていたためである[20]。またメアスは、1969年にポル・ポトがハノイと北京を訪問した際、これに同行していたと思われる[21]。ポル・ポトのカンボジア帰還時、ケオ・メアスはハノイにおり、ポル・ポトの旅程を手配したのはケオ・メアスであった。メアスはしばらくハノイに留まった[22][23]

1970年3月にクーデターで追放されたシハヌークは、5月に北京において「カンボジア王国民族連合政府」を樹立。ケオ・メアスは王国民族連合政府の在中国大使に任命されたが、1972年3月までにはこの地位を失い、ハノイに移った。ハノイでは、イエン・チリトの監督下で働くことになった[24][25]

粛清[編集]

プノンペン制圧後の1975年5月、党中央委員会の事務局で働くため、カンボジアに帰国した。しかし、彼は親ベトナム派であると疑われ、自宅軟禁下に置かれた[26]。1976年8月、東部地域第24区書記スアス・ネウ(別名、チューク)が逮捕され、拷問により自白したが、彼が裏切り者として名指しした中にケオ・メアスの名もあった[27]

1976年9月25日、メアスは逮捕され、S21監獄に収容された[28]。以降、S21文書においてはローマ数字のX番が付けられることになった[19]。彼は共産党に敵対する「カンボジア労働者党」を結成した罪に問われた[29]。激しい圧力にもかかわらず無実を訴えた。かつて親しかったポル・ポトあてに手紙を書いたが、届けられなかった[30]。1976年9月27日の報告書によれば、シャツを脱がせて後ろ手に手錠をかけられ、食事の時だけはずされた。また眠れないよう、蚊に食われ放題になるようにされた[31]

ケオ・メアスは拷問の末、ついには「私は内部から穴を開けるシロアリでした」と書かされ、裏切りを「自白」した[32]。その後まもなく、処刑された。

脚注[編集]

  1. ^ Kiernan (1985), p.131.
  2. ^ Kiernan (1985), pp.52-53.
  3. ^ a b c ショート(2008年)、151ページ。
  4. ^ Kiernan (1985), p.79.
  5. ^ Kiernan (1985), p.118.
  6. ^ Kiernan (1985), p.122.
  7. ^ Kiernan (1985), p.153.
  8. ^ ショート(2008年)、161-162ページ。
  9. ^ ショート(2008年)、162ページ。
  10. ^ Kiernan (1985), pp.156-157.
  11. ^ ショート(2008年)、168ページ。
  12. ^ Kiernan (1985), p.170.
  13. ^ Kiernan (1985), p.173.
  14. ^ Kiernan (1985), p.180.
  15. ^ Kiernan (1985), p.181.
  16. ^ Chandler, David P., Revising the Past in Democratic Kampuchea: When Was the Birthday of the Party?: Notes and Comments, in Pacific Affairs, Vol. 56, No. 2 (Summer, 1983), pp. 288-300.
  17. ^ a b 山田(2004年)、28ページ・表2。
  18. ^ Kiernan (1985), p.201.
  19. ^ a b チャンドラー(2002年)、122ページ。
  20. ^ Kiernan (1985), p.280.
  21. ^ Kiernan (1985), p.297.
  22. ^ Kiernan (1985), p.318.
  23. ^ 別資料では、1969年春にケオ・メアスは北京で療養し、8月に共産党の非公式な代表としてハノイに派遣された。そこで、元クメール・ベトミンの取り込みを図ったが、ソン・ゴク・ミンの圧力により失敗したとされる。ショート(2008年)、276ページ。
  24. ^ Kiernan (1985), p.359.
  25. ^ 別資料では、民族統一戦線の亡命政府の代表とある。チャンドラー(2002年)、123ページ。
  26. ^ Kiernan (1985), p.420.
  27. ^ チャンドラー(2002年)、120-122ページ。
  28. ^ チャンドラー(2002年)、126-127ページ。
  29. ^ チャンドラー(2002年)、123ページ。
  30. ^ 山田(2004年)、118ページ。
  31. ^ チャンドラー(2002年)、227ページ。
  32. ^ 山田(2004年)、119ページ。

参考文献[編集]

  • 山田寛 『ポル・ポト<革命>史-虐殺と破壊の四年間』 講談社<講談社選書メチエ305>、2004年。ISBN 9784062583053
  • デーヴィッド・チャンドラー 『ポル・ポト 死の監獄S21-クメール・ルージュと大量虐殺』 白揚社、2002年。ISBN 9784826990332
  • フィリップ・ショート 『ポル・ポト-ある悪夢の歴史』 白水社、2008年。ISBN 9784560026274
  • Kiernan, Ben. (1985), How Pol Pot Came to Power, London: Verso Books, ISBN 9780805272482 
  • Chandler, David P. (Summer, 1983), “Revising the Past in Democratic Kampuchea: When Was the Birthday of the Party?: Notes and Comments”, Pacific Affairs 56 (2): 288-300, http://links.jstor.orgsici?sici=0030-851X%28198322%2956%3A2%3C288%3ARTPIDK%3E2.0.CO%3B2-T .

外部リンク[編集]