ノン・スオン

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ノン・スオン(Non Suon、生年不明 - 1976年)は、カンボジア革命家政治家クメール人民革命党(後の共産党)中央委員。反ロン・ノル闘争時は第25地区長を務め、民主カンプチア成立後は農業委員長(農相)を務めた。1976年頃に粛清

別名、チェイ(Chey)。

経歴[編集]

スオンはカンポット地方出身の農民で[1]、1946年以降にカンボジア国内で抗仏運動を本格的に始めた[2]フランスからの独立闘争時に南西部書記に就任[1]

フランスが撤退した後は、1954年末に結成された人民革命党の準合法組織「プラチェアチョン」(人民派)で活動し、ケオ・メアスの補佐を務めた[3]

1956年にクメール人民革命党が都市委員会を設置したが、スオンもそのメンバーであったと推測されている[4]。1960年の党大会では、党中央委員に選出された名簿の第9位に「ライ・トン」の名があり、これがノン・スオンであると見られている[5]

しかしシハヌーク政権下で左翼は弾圧され、1962年6月の選挙を前にして「プラチアチョン」メンバーは一斉に検挙された。1962年1月12日にスオンも逮捕され[6]、シハヌークの命令により、軍事法廷で仲間とともに死刑宣告を受ける[7]。しかし、翌1962年2月には終身刑に減刑された[8]

1963年2月末の党大会において、党中央委員から落選した[8]

その後1970年、ロン・ノル将軍のクーデターが起こると、特赦で釈放され[9]、そのままプノンペン近郊で解放勢力に加わった[10]

1971年1月半ばの党中央委員会において特別地域第25地区長に任命される[9]。しかし、同年9月までに終了した第3回党大会においては、中央委員には選出されなかった[11]

ポル・ポト政権下[編集]

1975年4月にクメール・ルージュがプノンペンを陥落させた直後、5月に国立銀行の責任者に任命され、新通貨の導入を担当したが、8月には交代した[12]

1976年4月、ポル・ポト内閣が成立すると、農業委員長(閣僚級)に任命された[13]

粛清[編集]

しかし1976年7月、東部地域第24区書記スアス・ネウ(別名、チューク)が逮捕されると、彼はS21監獄における拷問の末、裏切り者としてネイ・サランケオ・メアス、ノン・スオンの名を「白状」した[14][15]。これにより同年11月初め、スオンは中国への公務旅行から帰国し、飛行機から降りたところで逮捕された[16]

彼はS21監獄に収容されると、ローマ数字のXII番が付けられ、共産党に敵対する「カンボジア労働者党」を結成した罪に問われた[17]。初めは無実を訴えたが、しかし3週間にわたる尋問により「私は内部から穴を開けるシロアリでした」と自らの裏切りを「自白」し[16]、やがて処刑された。

脚注[編集]

  1. ^ a b ショート(2008年)、172ページ。
  2. ^ 山田(2004年)、20ページ。
  3. ^ ショート(2008年)、174-176ページ。
  4. ^ 山田(2004年)、26ページ。
  5. ^ イエン・サリの証言による。ショート(2008年)、214ページ、原注4。
  6. ^ ショート(2008年)、208ページ。
  7. ^ ショート(2008年)、209ページ。
  8. ^ a b ショート(2008年)、210ページ。
  9. ^ a b ショート(2008年)、334ページ。
  10. ^ チャンドラー(2002年)、123ページ。
  11. ^ ショート(2008年)、335-336ページ。
  12. ^ ショート(2008年)、466ページ。
  13. ^ ショート(2008年)、536-537、原注1。
  14. ^ 山田(2004年)、116ページ。
  15. ^ 別資料では、スアス・ネウの逮捕は8月28日とある。ショート(2008年)、544ページ。
  16. ^ a b チャンドラー(2002年)、132ページ。
  17. ^ チャンドラー(2002年)、122-123ページ。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]