キリロス・ルカリス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
キリロス・ルカリス

キリロス・ルカリスΚύριλλος ΛούκαριςKyrillos LoukarisCyril LucarisCyril Lucar1572年 - 1637年6月)は、クレタ島に生まれた、正教会コンスタンディヌーポリ総主教であり神学者である。キリル・ルカリスとも転写される。

1602年アレクサンドリア総主教(アレクサンドリア総主教としてはキリロス3世)に着座し、1621年にコンスタンディヌーポリ総主教(コンスタンディヌーポリ総主教としてはキリロス1世)に着座した。

経歴[編集]

青年時代に受けた西欧からの影響[編集]

彼は、青年時代にヨーロッパに向かい、ヴェネツィアパドヴァ、そしてジュネーヴで神学教育を受けたが、その時期に宗教改革者ジャン・カルヴァン改革派信仰の影響を受けた。1453年東ローマ帝国滅亡以降、正教会の伝統的神学を教える機関の設立はオスマン帝国によって許されてはおらず、当時の東地中海世界で神学を志す者は西欧に学ぶ場を求めるしか無かった。この時代にそうした西欧に学んだ人々により正教会は西欧化したとされ、伝統の復興を肯定的に評価する人々からは基本的にこの時代の傾向は批判的に捉えられている。多かれ少なかれ、当代の正教会の神学者の多くはカトリック教会プロテスタントの影響を強く受けており、キリロス・ルカリスは後者からの影響を強く受けた人間の代表例とされる。

ブレスト合同から受けた影響[編集]

若き日に影響を蒙った改革派の影響と合わせ、ウクライナにおける1596年ブレスト合同での経験もキリロス・ルカリスの性格形成に影響を及ぼした。ブレスト合同では、アレクサンドリア総主教代理であった若きキリロス・ルカリスを含めたコンスタンディヌーポリ教会の代表者達と、東西教会の合同に反対した現地人正教徒達が、合同賛成派によって議場である聖堂から完全に締め出されるという強引な手法を経て、ウクライナ東方カトリック教会が成立した。この時のカトリック教会とポーランド王のやり方を目の当りにしたキリロス・ルカリスは、強烈な反ローマ・カトリック感情を抱くこととなる。

反ローマ・カトリックの姿勢と、聖公会・プロテスタントとの交流[編集]

以上のような経緯から、キリロス・ルカリスの反ローマ・カトリック姿勢は終生崩れる事は無く、彼のカルヴァン主義を始めとするプロテスタントへの傾斜は際立つ事となった。

当時、オスマン帝国の支配領域においてローマ・カトリック教会とその学校は建てられていたが、正教会の信仰とギリシア語の神学校が不足していた。そこで正教会の神品の養成のために、神学生を海外の教育機関に留学させることになった。その際、正教会の信仰に近いと彼が考えていたカルヴァン主義に注目し、若いギリシャ系の学生たちを宗教改革の学問機関がある、スイスオランダイングランドに留学させた。1629年にはカルヴァン主義の教義に近いとされる信仰告白が出版された。またキリロス総主教はイングランド国教会カンタベリー大主教とも文通をしていた。

精力的にカトリシズムに抵抗したキリロス・ルカリス総主教は、イエズス会士の謀略と讒言によって何度も追放される憂き目に会ったがその都度総主教座に復帰した。しかしついにスルタンムラト4世コサック蜂起に関わった容疑で、1637年6月に彼を殺害した。遺体はボスフォラス海峡に投げ込まれたが、友人によって首都から離れた場所に埋葬された。

評価[編集]

現代においてもキリロス・ルカリスの姿勢は、カルヴァン主義の影響の度合いがどれほどのものであったかという問題と、その事についての是非を巡り、正教会において議論の的となっている。

先代:
メレティオス1世
パパ・アレクサンドリア総主教
1601年 - 1620年
次代:
ゲラシモス1世
先代:
ネオフィトス2世
ティモセオス2世
アンシモス2世
キリロス2世
アサナシオス3世
ネオフィトス3世
コンスタンディヌーポリ全地総主教
1612年
1620年1623年
1623年1633年
1633年1634年
1634年1635年
1637年1638年
次代:
ティモセオス2世
グリゴリオス4世
キリロス2世
アサナシオス3世
キリロス2世
キリロス2世

参考文献・関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]