コンテンツにスキップ

「1950年代の香港」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
en:1950s in Hong Kong(04:22, 5 March 2022 UTC)からの翻訳により作成
(相違点なし)

2022年11月17日 (木) 15:43時点における版

1950年代の香港(1950ねんだいのほんこん)は、日本による香港統治の終了(1945年)に伴う英国の香港主権回復と、中国本土での国共内戦の再開(-1949年)を背景に、混沌とした状況ではじまった。これらの混乱は、大陸から香港に大量の避難民(逃港者)をもたらした。1945年から1951年にかけ、香港の人口は60万人から210万人に増加し、香港政府は受け入れの対応に苦慮することとなった。また、中国での情勢不安をうけ、企業は上海から香港へと資産や資本を移転させた。これは、人件費が安価な移民とともに、20世紀後半に香港が迎えた経済的奇跡の源となった。

背景

銅鑼湾、1955年

中国共産党が勝利を収めつつあった1949年、香港では大陸からの侵攻が懸念となっていた。ベルリン封鎖と共産政府からの敵対的な態度がまだ記憶に新しかったイギリス政府は、香港を共産圏に対する資本主義の前哨地として留めおくことに決定した。在香港の駐屯軍は強化され、有事の際のオーストラリアへの退避計画も新たに策定された。しかしながら、中国人民解放軍が香港国境で進撃停止を命じられたことで、香港はイギリス植民地として残ることとなった。

香港は、中国の玄関口にある貴重な貿易拠点であり、この経路を維持することで、北京の新政府との貿易が容易にさせることを期待されていた。また、ヨーロッパやアジア、特にマラヤ危機などに見られる共産主義者の脅威の高まりを前に、戦わずして共産主義者に香港を明け渡すことは、内外に対してイギリスの弱体化と取られるからであった。1950年代、ウェストミンスターの英国議会で、香港への中継港を維持できなければ、香港を中国に返還しなければならないという議論が行われた[1]。しかし、香港市民はこの案に激怒させた。結果、香港政府は、香港を製造業の中心地にすることに注力した。

人口統計

香港の紋章 (1959年-1997年)、公的には1959年1月に採用。

人口

1950年代初頭、香港には仕事も天然資源もなく、多くの人々が貧困にあえいでいた。事態は中国本土からの難民が殺到したことで、さらに深刻になった[2]。1951年6月まで国境管理が行われていなかったのである。

1949年、再編された中国共産党のもと中華人民共和国が成立した。新体制から逃れて香港に亡命した人々は、毎月10万人を超えていた。その多くは経営・管理の経験がある富農や資本家であったが、それ以上に多かったのが、後に香港で有力な三合会を築いた犯罪者たちであった。1950年代中盤、香港の人口は220万人にまで増加した。1956年、香港の人口密度は世界一に達した[3]

住宅

1953年、石硤尾大火によって53000人近い人々が焼き出された。この大火によって、香港の住宅事情に大きな変化がもたらされた。第22代香港総督アレクサンダー・グランサム卿英語版は緊急住宅計画を立案し、共通の建築様式として「多層式大廈中国語版英語版」(: multi-storey building)が導入された。この建築は、収容人員2500人で、耐火・耐水構造であった。これは、ホームレスとなった住人をできるだけ多く、できるだけ迅速に収容することが目的だった。ビルの各階は共同部屋、浴室、トイレを備えていた。成人には2.2㎡(24平方フィート)が、12歳以下の子どもにはその半分が割り当てられた[4]。高層ビルは、体積に比して床面積が小さかったことから、以後主流となっていった。

文化

粤劇中国語版英語版(広東オペラ)

生活様式

日本占領下末期、香港政府は米や綿糸を含め、食品と原材料の専売を行っていた。政府による価格統制は1953年まで続けられた。1950年代の香港を一言で言い表すならば、資源不足と止まらない人口増加であった。国境を越えて香港へと渡った大陸出身者の多くは、既存の建築物の屋上や山際にバラックを違法に建て、そこに住んだ。また、大陸出身者と香港育ちの人々という異なる社会の統合によって、人々は互いに無数の方言という問題に悩まされることとなった。

教育

香港で出生した市民には、政府によって教育と住居が与えられた。難民の第一団には、臨時の保護施設のみが供給された。これは、現地当局の認識では彼らが将来的に中国大陸に帰還するという見立てがされていたからである。推計では、政府支出の9%が教育と医療に充てられていた[5]。教育カリキュラムは、香港の生徒たちが国家的な意味での香港または中国に対するナショナリズムを抱かせないことを重要視する一方で、彼らが英中貿易英語版の仲介役であることを強調していた[6]

この時期に作成された香港政府の内部資料によれば、都市部の学校のなかで34校が共産党の支配下にあり、うち24校が新界所在であった。また、他の32校が教職員の中に左翼分子を抱えていた。1952年、政治的な洗脳による支配下にある学校を閉鎖する権限を教育長(教育司署の長)に与える条例が制定された[7]。香島中学や南方学院で、この措置がとられた[8]。その一方、難民の多くは教育や社会福祉をキリスト教会にたよった。

娯楽

粤劇中国語版英語版(えつげき)は、1950年代の香港における主要な娯楽のひとつであった。また、この時期にショウ・ブラザーズカンフー映画の最初期の作品を製作している。彼らが作り上げた剣戟のスタイルは、その後何年にもわたり数多くの映画やTVドラマで模倣されることとなった。

治安維持

1956年香港暴動英語版[注釈 1]は、香港初の大規模な暴動となった。この暴動は植民地政府に低賃金・長時間労働・人口過密がもたらす問題を強く意識させた[9]。また、この間、治安機関の締め付けによって三合会は活動を縮小した。1950年代の香港における多くの社会問題は、領内での国民党と共産党の派閥争いをめぐるものであった。ロンドンホワイトホール政府は、共産主義者が香港植民地で反英感情を煽ることを恐れた。これにより植民地省は、香港総督政府に対し反共政策を採るよう促した。1956年の暴動については、2020年にラウトレッジ社から出版された歴史家ローハン・プライスの著作に詳しい[10]

経済

九龍尖沙咀香港天文台。1950年。

交通

1947年時点では、香港のタクシー英語版の台数はわずか329台であった。1950年代の終わりの1959年には、851台にまで増加した[11]。香港のタクシー産業は、路線を辿らなければならないバスに比べてより融通がきくことから、人気を博していった。

工業

1953年、2つの埋立計画が進められ、香港の面積は280ha(300万平方フィート、東京ドーム60個分弱)拡張された。1つ目の計画は、啓徳空港の滑走路用の敷地確保が狙いであった。続く計画は観塘荃湾英語版の工業化が目的であった[12]。初期の工業地区では、ボタン造花、傘、布地、琺瑯製品履物、プラスチックといった材料が生産された。

医療と観光

難民の受け入れには、多くのサービスと計画の協力が求められた。1950年7月12日、英国赤十字社は香港における初の支部を香港紅十字会として立ち上げた。事業は荔枝角医院中国語版英語版ではじめられた。1952年には献血もはじめられ、初年度には483人が献血を行っている。翌1953年には石硤尾大火を受けて、災害救援事業も設立された[13]

1957年には香港旅遊協会英語版(香港旅遊発展局の前身)が設立された。

財政

1950年代、香港の銀行は政府による統制をうけていなかった。また、中央銀行も存在せず、金融政策も行われていなかった。当時の香港は急速な経済成長に伴う深刻な資金繰り問題になっていたにも関わらず、香港総督は香港証券取引所に対する規制を行おうとはしなかった。製造業界からは投資不足への不満が相次いだ[14]。また、香港の内外から同地域の政策への見直しを求める圧力がかけられた。

脚注

注釈

  1. ^ 雙十暴動とも。国民党派と共産党派の衝突が暴動に発展した。

出典

  1. ^ Wiltshire, Trea. [First published 1987] (republished & reduced 2003). Old Hong Kong - Volume Three. Central, Hong Kong: Text Form Asia books Ltd. Page 5. ISBN Volume Three 962-7283-61-4
  2. ^ Walters, Alan Arthur. Walter, James. Hanke, Steve. [1998] (1998). The Revolution in Development Economics. Cato Institute Publishing. ISBN 978-1-882577-55-2
  3. ^ Chan, Shun-hing and Beatrice Leung. (2003). Changing Church and State Relations in Hong Kong, 1950-2000. Hong Kong: HK University Press. Page 24. ISBN 962-209-612-3
  4. ^ Choi, Barry (1978年10月14日). “Focus on small flats”. South China Morning Post. 2007年2月7日閲覧。
  5. ^ Schenk, Catherine Ruth. [2001] (2001). Hong Kong as an International Financial Centre: Emergence and Development, 1945-1965. United Kingdom: Routledge. ISBN 0-415-20583-2
  6. ^ Ma, Eric Kit-wai. Ma, Chieh-Wei. [1999] (1999). Culture, Politics, and Television in Hong Kong. United Kingdom: Routledge. ISBN 0-415-17998-X
  7. ^ Chan, Shun-hing. Leung, Beatrice. [2003] (2003). Changing Church and State Relations in Hong Kong, 1950-2000. Hong Kong: HK university press. Page 26. ISBN 962-209-612-3
  8. ^ Bray, Mark. Koo, Ramsey. [2005] (2005) Education and Society in Hong Kong and Macao: Comparative Perspectives on Continuity and Change. Hong Kong: Springer Press. ISBN 1-4020-3405-9
  9. ^ Wiltshire, Trea. [First published 1987] (republished & reduced 2003). Old Hong Kong - Volume Three. Central, Hong Kong: Text Form Asia books Ltd. Page 7. ISBN Volume Three 962-7283-61-4
  10. ^ Price, Rohan B.E. Resistance in Colonial and Communist China (1950-1963) Anatomy of a Riot (Routledge, 2020).
  11. ^ HK Gov. "HK Gov Archived 6 March 2007 at the Wayback Machine.." Taxi Annual Traffic report. Retrieved 23 February 2007.
  12. ^ Schenk, Catherine Ruth. [2001] (2001). Hong Kong as an International Financial Centre: Emergence and Development, 1945-1965. United Kingdom: Routledge. ISBN 0-415-20583-2
  13. ^ Lui, Tai-lok. Lü, Dale. [2001] (2001). Light the Darkness: The Story of the Hong Kong Red Cross, 1950-2000. Hong Kong: HK university press. ISBN 962-209-530-5
  14. ^ Schenk, Catherine Ruth. [2001] (2001). Hong Kong as an International Financial Centre: Emergence and Development, 1945-1965. United Kingdom: Routledge. ISBN 0-415-20583-2