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}}</ref>。そもそも、前漢では「郷挙里選」の用例がなく、後漢でも当時は特定の制度を指す名称ではなかった。そこで、文脈によっては、この秀才・孝廉などの科目での登用制度を指すときに、あえて「郷挙里選」の名を避けて「漢代の選挙」や「漢代の察挙」と表現される。 |
}}</ref>。そもそも、前漢では「郷挙里選」の用例がなく、後漢でも当時は特定の制度を指す名称ではなかった。そこで、文脈によっては、この秀才・孝廉などの科目での登用制度を指すときに、あえて「郷挙里選」の名を避けて「漢代の選挙」や「漢代の察挙」と表現される。 |
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逆に言うと、察挙は推薦による登用全てを指すので、地方からの推薦だけではなく[[三公九卿]]や[[大将軍]]のような中央の高官からの推薦も含んでいる。したがって、地方からという点を重視すると、州・郡の長官が推薦する秀才([[茂才]])・孝廉による登用が最狭義の郷挙里選であり、冒頭に引用した章帝の発言もこの意味で使われている。 |
逆に言うと、察挙は推薦による登用全てを指すので、地方からの推薦だけではなく[[三公九卿]]や[[大将軍]]のような中央の高官からの推薦も含んでいる。したがって、地方からという点を重視すると、州・郡の長官が推薦する秀才([[茂才]])・孝廉による登用が最狭義の郷挙里選であり、冒頭に引用した章帝の発言もこの意味で使われている<ref name="漢代察挙制度の位置"></ref>。 |
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これまでみてきたように、後世にも、西晋や唐のようにたびたび郷挙里選の復活を望む声があったかたわらで、同じ西晋でも、例えば[[道家]]の[[葛洪]]は、郷挙里選を'''秀孝'''という略語で呼んで有能な人物が得られないと批判し、後漢末期当時の世評として以下の文を紹介した。 |
これまでみてきたように、後世にも、西晋や唐のようにたびたび郷挙里選の復活を望む声があったかたわらで、同じ西晋でも、例えば[[道家]]の[[葛洪]]は、郷挙里選を'''秀孝'''という略語で呼んで有能な人物が得られないと批判し、後漢末期当時の世評として以下の文を紹介した。 |
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この秩石の序列とは別に、漢代の官吏には大きく分けて2つの区分があった。ひとつが皇帝によって任命された''勅任官(長吏)''で、もうひとつがそうではない''非勅任官(少吏)''、つまり、主に(州・)郡・県などの地方政府(の高官)によって採用された属吏である。この両者の間には出世のルートや待遇の面で厚い壁があった。また、この地方政府の高官、すなわち長官や佐官とされた州の[[刺史]]や県の尉など、は勅任官であったが、彼らは本籍地として登録されている[[本貫地]]に派遣されることはない、という厳格なルールがあり、逆に、非勅任官は基本的に本貫地で現地採用された<ref name="漢代察挙制度の位置"></ref>。 |
この秩石の序列とは別に、漢代の官吏には大きく分けて2つの区分があった。ひとつが皇帝によって任命された''勅任官(長吏)''で、もうひとつがそうではない''非勅任官(少吏)''、つまり、主に(州・)郡・県などの地方政府(の高官)によって採用された属吏である。この両者の間には出世のルートや待遇の面で厚い壁があった。また、この地方政府の高官、すなわち長官や佐官とされた州の[[刺史]]や県の尉など、は勅任官であったが、彼らは本籍地として登録されている[[本貫地]]に派遣されることはない、という厳格なルールがあり、逆に、非勅任官は基本的に本貫地で現地採用された<ref name="漢代察挙制度の位置"></ref>。 |
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これらの官職は秩石の大小を問わず、4年を目安とした満期が設定されており、その満期が来れば官吏に「功」が一つ追加され、満期に達しない年数は「労」としてカウントされた。例えば、ある官職を6年務めた場合は「功一労二歳」というように評価された。これを''功労''という。功はもともと戦争で首級を上げるなどの戦功を評価する制度で、大きな戦争がなくなった後も、盗賊の捕縛で功が追加されたり、公的な弓術大会で好成績を収めれば労に最大3ヶ月追加されたり、逆に不始末があれば「奪労」として労を減らされたりした。こうした功の累積による昇進を''功次''といい、それに伴う異動を''遷転''という<ref>{{Cite journal |和書 |
これらの官職は秩石の大小を問わず、4年を目安とした満期が設定されており、その満期が来れば官吏に「功」が一つ追加され、満期に達しない年数は「労」としてカウントされた。例えば、ある官職を6年務めた場合は「功一労二歳」というように評価された。これを''功労''という。功はもともと戦争で首級を上げるなどの戦功を評価する制度で、大きな戦争がなくなった後も、盗賊の捕縛で功が追加されたり、公的な弓術大会で好成績を収めれば労に最大3ヶ月追加されたり、逆に不始末があれば「奪労」として労を減らされたりした。こうした功の累積による昇進を''功次''といい、それに伴う異動を''遷転''という<ref name="漢代における功次による昇進について">{{Cite journal |和書 |
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|author = [[大庭脩]] |
|author = [[大庭脩]] |
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|title = 漢代における功次による昇進について (特集 居延漢簡の研究) |
|title = 漢代における功次による昇進について (特集 居延漢簡の研究) |
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===郷挙里選の科目=== |
===郷挙里選の科目=== |
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====各科目の例==== |
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郷挙里選の人物評定の枠として設けられた科目は、孝廉・賢良・方正・直言・文学・計吏(上計吏、計掾、上計掾)<ref>[[222年]]の魏の勅令によれば、「上計吏と孝廉は古代における[[貢士]](地方から推挙される人物)である。」</ref>・[[秀才 (科挙)|秀才]]([[後漢]]では[[光武帝|劉秀]]を[[避諱]]して茂才と改められる)などがある。 |
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{{main|孝廉|秀才|明経}} |
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『後漢書』の著者である[[范曄]]は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の人物で、登用された官吏を[[貢士]]と呼んでいる。彼が書いた『後漢書』内の解説である「史論」によると、「貢士の方」は前漢に賢良・方正と孝廉・秀才があり、後漢に敦朴、有道、賢能、直言、独行、高節、質直、清白、敦厚が追加された。これらが郷挙里選の科目である<ref name="漢代賢良方正科考">{{Cite journal |和書 |
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|author = [[福井重雅]] |
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|title = 漢代賢良方正科考 |
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|date = 1984-12-31 |
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|publisher = 東洋史研究會 |
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|journal = 東洋史研究 |
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|doi = 10.14989/153965 |
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|volume = 43 |
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|issue = 3 |
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|pages = 433-459 |
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|url = https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/153965/1/jor043_3_433.pdf |
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|format = pdf |
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|accessdate = 2021-02-28 |
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}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷61#史論|title=『後漢書』左周黄列伝「史論」|wslanguage=zh|show-language=yes|quote= |
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漢初詔舉賢良、方正、州郡察孝廉、秀才、斯亦貢士之方也。中興以後、復增敦樸、有道、賢能、直言、獨行、高節、質直、清白、敦厚之屬。}}</ref>。また、元代の『文献通考』は、「挙士の目」を大別すると、賢良・方正、孝廉、博士弟子の3つであると述べており、博士弟子員の制度も含めている<ref name="中国の選挙と貢挙と科挙"></ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=文獻通考/卷二十八|title=『文獻通考』「選舉考一」|wslanguage=zh|show-language=yes|quote=漢制、郡國舉士、其目大概有三。曰賢良、方正也、孝廉也、博士弟子也。然是三者、在後世則各自為科目。 |
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}}</ref>。他にも、漢代の察挙科目に該当するものは、[[明経]]や高第などがある。以下にこれらの科目の概略を説明する。 |
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;賢良・方正 |
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:前漢で推薦された者は、六百石以上の県令となったほか、[[五経博士|博士]]や中大夫・諫大夫など、皇帝の諮問に答える役職についた。後漢で推薦された者は、ほぼ議郎となって、やはり皇帝の側近として助言する役職になった<ref name="漢代の選擧と官僚階級"></ref>。募集があったのは主に[[地震]]などの[[天変地異]]、すなわち[[災異]]があった時で、皇帝は自らの不徳を認め、それを世間の意見を聞き入れ補うという名目で登用が実施された。歴史書の表現では「賢良方正」と両方が書かれている場合、「賢良」と「方正」で分かれている場合、「賢良文学」のように片方に他の科目が付いてる場合などがある。 |
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:*[[何武]]の例: 久しくして、太僕の王音は武を賢良方正に挙ぐ。徴せられ対策し、拝して諫大夫となり、揚州刺史に遷る<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷086#何武|title=『漢書』「何武伝」| wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。 |
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:*[[蓋寛饒]]の例: 明経にして郡文学となり、孝廉をもって郎となる。方正に挙げられ、対策高第なりて、諫大夫に遷る<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷077#蓋寬饒|title=『漢書』「蓋寬饒伝」| wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。 |
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:*[[董仲舒]]の例: 武帝は即位し、賢良文学の士、前後百数を挙ぐ。而して、仲舒は賢良をもって対策す<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷056#董仲舒|title=『漢書』「董仲舒伝」| wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。 |
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:*[[張奐]]の例: 疾をもって官を去り、復た賢良に挙げられ、対策第一にて、議郎を擢拝す<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷65#張奐|title=『後漢書』「張奐伝」| wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。 |
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:これらの例のように、賢良・方正に推薦された人は、皇帝の試問という形式の試験に解答を行った。これを''対策''と言い、この科目は、対策の内容が認められて抜擢される、という手続きを踏む。ところが、例外的に、高官に疎まれた結果、対策の評価を落とされて六百石に届かない場合もある<ref name="漢代察挙制度の研究">{{Cite journal |和書 |
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|author = [[福井重雅]] |
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|title = 漢代察挙制度の研究 : とくに制挙における昇進の規準をめぐって |
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|date = 1983-11 |
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|publisher = 東京大学東洋文化研究所 |
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|journal = 東洋文化研究所紀要 |
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|doi = 10.15083/00027253 |
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|volume = 93 |
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|pages = 1 - 31 |
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|url = https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=27262&file_id=19&file_no=1 |
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|format = pdf |
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|accessdate = 2021-02-28 |
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}}</ref>。 |
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:*{{仮リンク|皇甫規|zh|皇甫規}}の例: 沖質の間、梁太后は臨朝し、規は賢良方正に挙げらる。対策に曰く、「(中略)」。梁冀はその己を刺すに忿り、規をもって下第となす。郎中を拝すも、疾を託ち免帰す<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷65#皇甫規|title=『後漢書』「皇甫規伝」| wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。 |
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;孝廉 |
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:通例としては、在野の者や百石以下の属吏が、郡の太守または国の諸侯相によって推薦され、比三百石の郎中になった後に、四百石前後の県の長官や佐官となった。孝廉は孝悌廉潔の略語であり、前半の[[孝悌]]は儒教の徳目である。後漢では対象者を40歳以上とする規定が生まれ、漢代の登用で唯一の年齢制限が課された。これは両親のいずれかの死とその喪に服す経験を前提としたためと考えられる。また、対象者への試験の導入も検討された。孝廉はエピソードさえあれば資格を満たすので、極論すれば[[文盲]]を文官として登用することも可能になり、これを防ぐためと考えられる。 |
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:*[[王吉]]の例: 少時に学び明経なり。郡吏をもって孝廉に挙げられ郎となり、若盧右丞に補され、雲陽令に遷る。賢良に挙げられ昌邑中尉となる<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷072#王吉|title=『漢書』「王吉伝」| wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。 |
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:*[[劉雄 (曖昧さ回避)|劉雄]]の例: 雄は孝廉に挙げられ、官は東郡の范令に至る<ref>{{Cite wikisource|wslink=三國志/卷32|title=『三国志』「先主伝」| wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。 |
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:孝廉の亜種には廉吏があり、廉吏として推挙されることを察廉または挙廉と言う。これは、既に登用されていた官吏が対象となって、選ばれた者は昇進し、同じ人物が複数回選ばれることもあった<ref name="漢代の選擧と官僚階級"></ref>。後に対象者を六百石未満とする制限ができた<ref name="漢代賢良方正科考"></ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷008|title=『漢書』「宣帝紀」|wslanguage=zh|show-language=yes|quote= |
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舉廉吏、誠欲得其真也。吏六百石位大夫、有罪先請、秩祿上通、足以效其賢材、自今以來毋得舉。}}</ref>。 |
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;秀才(茂才) |
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:秀才は後漢になると[[光武帝]](劉'''秀''')の[[避諱]]により茂才に変更された。後漢の茂才は三公、光禄勲、各州の刺史の最大計17人が毎年1人ずつ推薦し、通例としては、推薦された者は六百石以上の県令となった<ref name="後漢の官吏登用法に関する二、三の問題">{{Cite journal |和書 |
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|author = 西川利文 |
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|title = 後漢の官吏登用法に関する二、三の問題 |
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|date = 1987-03-14 |
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|publisher = 佛教大学学会 |
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|journal = 佛教大學大學院研究紀要 |
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|pages = 107-136 |
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|url = https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DD/0015/DD00150R107.pdf |
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|format = pdf |
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|accessdate = 2021-02-28 |
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}}</ref><ref name="漢官目録">{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷114|title=『漢官目録』|wslanguage=zh|show-language=yes|quote= |
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建武十二年八月乙未詔書、三公舉茂才各一人、廉吏各二人。光祿歲舉茂才四行各一人、察廉吏三人。中二千石歲察廉吏各一人、廷尉、大司農各二人。將兵將軍歲察廉吏各二人。監察御史、司隷、州牧歲舉茂才各一人。}}</ref>。 |
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:*{{仮リンク|劉辟彊|zh|劉辟彊 (宗正)}}と劉長楽の例: 宗室の在位者なしをもって、劉辟彊、劉長楽を茂才に挙げ、皆、光禄大夫となし、辟彊は長楽衛尉を守す<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷007|title=『漢書』「昭帝紀」| wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。 |
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;博士弟子員と射策 |
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;高第 |
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:上第や第一とも言い、字義としては、何らかの試験結果が優秀であったことを意味する。後漢の中期以降では、高官が自らの公府に辟召した人材を勅任官にする手段となった。したがって、対象者は公府の属吏であり、[[侍御史]]を経由して刺史になる経歴が典型となった。 |
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:*[[張綱]]の例: 少くして明経学なり。公子となるといえども、布衣の節を厲ます。孝廉に挙げられるも就かず。司徒は高第に辟して侍御史となる<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷56#子綱|title=『後漢書』「張晧伝」| wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。 |
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====制科と常科==== |
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====科目と技能==== |
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「明経」や「孝廉」といった表現は朝廷が募集する登用の科目であると同時に、推薦者や世間の人から見た人物の技能や資質の評価でもあって、登用とは無関係に明経や孝廉に該当する人物が存在しうる。歴史書に「孝廉に挙げられ」や「明経に挙げられ」と書かれていた場合は当人がその科目で登用されたことが明らかであるが、「明経をもって郎となる」と書かれていた場合は、明経科で登用されたのか、明経と認められた人物が別の経路(極論すれば任子など)で登用されたのか判別できない。というのも、明経として推薦されて明経科では郎官になれず、博士弟子員となったケースもあるからである。 |
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こういった、同名のややこしい評価は別としても、例えば孝廉の申請書類には''文無害''などの技能・異才に関する評価を書く欄があり、それらに加えて現職での功労も添えられおり、これらは推薦者からの評価として同列に扱われていた。 |
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===推薦者と被推薦者=== |
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====推薦者の権利と義務==== |
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====郷里と豪族==== |
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推薦に当たっては郡守と[[諸侯相|相]]、そして郷里の有力者の合議によって選ばれる。そのため、これらの人物との繋がりこそが推薦されるために必要となる。その主な出身母体となったのが、[[文景の治]]の頃から経済力を積み上げてきた[[豪族]]と呼ばれる存在である。豪族自身が地方の有力者であり、更にそこから選ばれた郡守や相も豪族出身であることが多いため、この制度の下での人材任用は豪族の影響力が強くなった。 |
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後漢では豪族の勢力は更に強まり、官に推薦されるか否かは豪族たちの間での評判が全てとなる。後漢では人材評論が流行ったが、これも推薦を受けるためには郷里での評判が必要であったからである。この評判のことを郷論と呼ぶ。この評判を勝ち取るために、後漢の人士の中では少々大げさに自らの行動を飾り立てることがあったようである。 |
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==変遷と影響== |
==変遷と影響== |
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===前漢=== |
===前漢=== |
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[[前漢]]の最初期にその政権を担当していたのは、[[劉邦]]に付き従って[[楚漢戦争]]に功績を挙げた元勲たちであり、彼らは、父祖が[[韓 (戦国)|韓]]の[[相国]]だった[[張良]]を除いて、全て下層階級の出身である。こういった集団が国を興すのは当時としては珍しかったが、自らもその一員だった劉邦はその有用性をよく理解しており、元の身分にこだわらず天下に広く人材を集める方針を採った。[[紀元前196年]]に出された、いわゆる「求賢令」がそれである<ref name="西漢の官僚階級"></ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷001下|title=『漢書』「高帝紀」|wslanguage=zh|show-language=yes}}{{quote|蓋し聞く、王者は周文より高きはなく、伯者は斉桓より高きはなし。皆賢人を待ちて名を成す。今、天下に賢者智能あり。豈特に古の人のみならんや。患は人主の交わらざるが故に在るなり。士いずくんぞ由りて進まん。今吾天の霊をもって、賢士大夫と天下を定有し、もって一家となし、その長久世世、宗廟を奉ること絶えるなきを欲す。賢人已に我と共にこれを平らぐ。而して、吾と共にこれを安利せざるは可ならんや。賢士大夫の我に従いて游ぶを肯んず者あらば、吾能くこれを尊顯す。天下に布告す。朕の意を明らかに知らしめよ。御史大夫昌は相国に下し,相国酇侯は諸侯王に下し、御史中執法は郡守に下し、その意称明徳の者あれば、必ず身ら勧め、これがために駕し、相国府に詣で、行義年を署せしめ。有りて言わざり覚せば免ず。年老癃病は遣すなかれ。|劉邦|「求賢令」}}</ref>。 |
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[[前漢]]の初期にその政権を担当していたのは、[[劉邦]]に付き従って[[楚漢戦争]]に功績を挙げた元勲たちとその子孫たちであった。 |
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[[紀元前178年]]に[[文帝 (漢)|文帝]]は賢良方正にして直言極諫の士の推挙を求める勅令を出した。その後も言論の自由を保障するなど細かく変えながら同様の勅令が何度も出されたが、いずれもうまくいかず、[[紀元前168年]]には登用方法が確立されていないことを認める発言をしている。しかし、試行錯誤の末、[[紀元前165年]]の勅令で[[晁錯]]を登用し、賢良と対策が本格的に始まることとなった。次の[[景帝 (漢)|景帝]]の時代では、劉邦に登用された人物は既にほとんど死んでおり、元勲たちの子孫の世代が丞相を歴任するようになったが、これらの人々は『史記』に「善良だが無能」と書かれている<ref name="西漢の官僚階級"></ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=史記/卷096#申屠嘉|title=『史記』「申屠嘉伝」|wslanguage=zh|show-language=yes|quote=皆以列侯繼嗣,娖娖廉謹、為丞相備員而已、無所能發明功名有著於當世者。 |
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}}</ref>。 |
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[[武帝 (漢)|武帝]]は[[紀元前141年]]に即位したときに、賢良で100人以上を登用し、その中にいた[[董仲舒]]の対策にあった提案を取り入れ、[[紀元前134年]]に孝廉による登用が始まった。また、同じく武帝が賢良で登用した[[公孫弘]]の提案により、[[紀元前124年]]に博士弟子員の制度が始まった。このように郷挙里選の中核的な制度が武帝の時代に整備された理由は、登用する人材の質の向上を図る狙いと、[[中央集権体制]]の確立を図る狙いの2つの説で説明される。 |
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推薦に当たっては郡守と[[諸侯相|相]]、そして郷里の有力者の合議によって選ばれる。そのため、これらの人物との繋がりこそが推薦されるために必要となる。その主な出身母体となったのが、[[文景の治]]の頃から経済力を積み上げてきた[[豪族]]と呼ばれる存在である。豪族自身が地方の有力者であり、更にそこから選ばれた郡守や相も豪族出身であることが多いため、この制度の下での人材任用は豪族の影響力が強くなった。 |
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董仲舒は、彼の対策の中で、任子・富貲による登用と、彼らが功労により昇進して次の権力者を生むのに十分な地位・財産を得ることは、人材の質の面で問題視していた。その後の事例を見ても、功次で昇進してきた人材に比べると、郷挙里選で抜擢された人材の方が確かに優秀で扱いにも差がある。[[成帝 (漢)|成帝]]の時代には、孝者と功次で県令に昇進した人物がその県の盗賊に対応できなかったのに対して、察廉と秀才で県令になった人物と任地を交換すれば上手く治まったエピソードがある。同じく成帝の時期に、博士は優秀な者なら尚書や刺史となり、政事に疎い最下等の人物は功次によって諸侯の[[太傅]]へと転出する、とされており、功次は一段低く見られていた<ref name="漢代における功次による昇進について"></ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷083#薛宣|title=『漢書』「薛宣伝」|wslanguage=zh|show-language=yes|quote=又頻陽縣北當上郡、西河、為數郡湊、多盜賊。其令平陵薛恭本縣孝者、功次稍遷、未嘗治民、職不辦。而粟邑縣小、辟在山中、民謹樸易治。令鉅鹿尹賞久郡用事吏、為樓煩長、舉茂材、遷在粟。宣即以令奏賞與恭換縣、二人視事數月、而兩縣皆治。 |
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}}</ref>。 |
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ただし、太常の属官として人材登用に関わっていた[[司馬遷]]は、[[紀元前93年]]の「報任少卿書」において、出世の4条件として、奇策・実績・戦功と併記する形で功労を挙げており、武帝の晩年にあっても功次は健在であった。さらに、下火になっていったのはあくまで功次のみを理由とする昇進の話であり、特に孝廉などの常科で功労は評価基準として組み込まれていった。そして、任子・富貲に言及した董仲舒本人も、任子・富貲の改革そのものには手を付けず、これらによる登用はむしろ武帝期にも盛んに行われ、特に任子は以降も漢代を通じて有力な郎選であり続けた。やや時代は下って[[宣帝 (漢)|宣帝]]の時代に、[[王吉]]は任子の廃止を提案したが、宣帝はこれを退けている。実際に実力を示した勢力が政権の中枢に参画し続けることは、反乱が多発した当時にあって、国家運営の安定に寄与していたと考えられる<ref name="西漢の官僚階級"></ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷062|title=『漢書』「司馬遷伝」|wslanguage=zh|show-language=yes|quote=下之、不能累日積勞、取尊官厚祿、以為宗族交遊光寵。 |
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}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷072#王吉|title=『漢書』「王吉伝」|wslanguage=zh|show-language=yes|quote=今使俗吏得任子弟、率多驕驁,不通古今、至於積功治人、亡益於民、此伐檀所為作也。宜明選求賢、除任子之令。 |
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}}</ref>。 |
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他方で、そもそも、[[春秋戦国時代]]のころより、世間に広く賢人を求め、大量の[[食客]]を抱え[[士大夫]]として取り立てるのは、[[封建社会]]では[[諸侯]]の嗜みとして奨励される行為だった。前漢の初めは[[郡国制]]で名実ともに諸侯が実在した時期であり、彼らはもちろんのこと、まだ領地に封じられていない高官たちもその常識に倣っていた。実際に、[[衛青]]は軍部のトップに登り詰めながら、抱える人材の登用に熱心ではなかった点で世間の評判を落としており、そのことを部下の{{仮リンク|蘇建|zh|蘇建}}に責められると、「[[竇嬰]]と[[田蚡]]が大勢の食客を抱えていることを武帝は不快に思っていたので自分は遠慮する」と答え、[[霍去病]]もその方針を踏襲した。つまり、こういった春秋戦国時代の気風を放置すれば、賢人たちによって力をつけた諸侯が割拠する時代へと逆行するおそれがあったので、諸侯らの下に賢人が帰属することは武帝の目には越権行為として映っていた。求賢を皇帝の専権事項にし、賢人たちを勅任官として皇帝に直属させる改革が必要とされたのである<ref name="漢代賢良方正科考"></ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=史記/卷111#評論|title=『史記』衛将軍驃騎列伝 「評論」|wslanguage=zh|show-language=yes|quote=吾嘗責大將軍至尊重、而天下之賢大夫毋稱焉、願將軍觀古名將所招選擇賢者、勉之哉。大將軍謝曰「自魏其、武安之厚賓客、天子常切齒、彼親附士大夫、招賢絀不肖者、人主之柄也。人臣奉法遵職而已、何與招士。」。 |
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}}</ref>。 |
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===後漢=== |
===後漢=== |
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[[後漢]]になると、[[光武帝]]は[[王莽]]のような簒奪者を二度と出さないために[[儒教]]を重視する政策を取り、選挙の科目の中でも特に孝廉を重視した。 |
[[後漢]]になると、[[光武帝]]は[[王莽]]のような簒奪者を二度と出さないために[[儒教]]を重視する政策を取り、選挙の科目の中でも特に孝廉を重視した。 |
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===三国時代以降=== |
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後漢では豪族の勢力は更に強まり、官に推薦されるか否かは豪族たちの間での評判が全てとなる。後漢では人材評論が流行ったが、これも推薦を受けるためには郷里での評判が必要であったからである。この評判のことを郷論と呼ぶ。この評判を勝ち取るために、後漢の人士の中では少々大げさに自らの行動を飾り立てることがあったようである。 |
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後漢の最後期、最高権力者が[[曹丕]]となって[[魏 (三国)|魏王朝]]の樹立が現実的となり、[[220年]]に[[陳羣]]の提案により[[九品官人法]]が始まって、郷挙里選は廃止された。郷挙里選と九品官人法の関係については以下の2つの見解がある。 |
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人事制度の観点からは、漢魏の[[易姓革命]]は、魏王・曹丕の陪臣が、そのまま全て皇帝・曹丕の勅任官になることを意味する。例えば、九品官人法を制定した時点で、陳羣自身は魏王国の尚書であり、革命によって魏王朝の尚書となった。ここで問題になるのは、逆に、漢で勅任官だった官吏は魏では失職することであり、郷挙里選では推薦する側の立場だった高官らもここに含まれる。しかし、革命の前後で官吏を量的に維持するためには、旧体制下で勅任官だった人材を新体制でも改めて勅任官とする必要があった。この時に旧体制下で勅任官だった人材の審査を担当したのが''中正官''であり、彼らは中正官の算定した[[九品]]に応じた官職に割り振られた。言い換えれば、九品官人法は革命に必要だったから制定された仮初めの制度で、過渡期が終われば不要である。前述のように、実際にこういった考えから、西晋の衛瓘と劉毅は九品官人法の廃止と郷挙里選の復活を訴えた<ref name="九品官人法の研究">{{Cite journal |和書 |
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|author = [[守屋美都雄]] |
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|title = <批評・紹介>九品官人法の研究 科學前史 宮崎一定著 |
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|date = 1956-10-20 |
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|publisher = 東洋史研究会 |
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|journal = 東洋史研究 |
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|doi = 10.14989/145881 |
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}}</ref><ref name="九品官人法の制定について">{{Cite journal |和書 |
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|author = [[越智重明]] |
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|title = 九品官人法の制定について |
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|date = 1963-09 |
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|publisher = 東洋文庫 |
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|journal = 東洋学報 |
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|volume = 46 |
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|pages = 186 - 222 |
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あるいはこうも考えられる。曹丕の父、[[曹操]]は郷挙里選による推薦者と被推薦者の人的結合という弊害を巧みに利用し、丞相・魏王となって自らの府を開くまでになった。つまり、丞相府や魏王の政府へ辟召した属官と漢王朝の勅任官を茂才や高第で入れ替えることによって、推薦者としての立場を活用して勢力を拡大したのである。ところが、革命を目前とした曹丕らにとって、もはや勅任官を作り出すことに意味はなく、郷挙里選による人的結合の弊害はそのまま弊害として受け取られることになった。なんといっても、この人的結合が皇帝を超える権力を生んで革命を起こしうることを、曹操が証明してしまったからである。魏王朝内でも皇帝以外との人的結合が露呈するケースがあり、例えば、魏では[[223年]]の[[劉備]]の死亡を祝ったが、[[袁渙]]はひとりだけ祝賀に加わらなかった。なぜなら、25年前に袁渙を茂才で推薦したのは、[[豫州]]の刺史だったころの劉備だったからである。他方で、魏王国の時点で新王朝に必要な人材は揃っていたという見方もあり、そうであるならば、革命に不満を持つ人材があったとしても、あえて審査して漢王朝への忠誠心を刺激し反感を買う必要はなかったはずである。結局のところ、この説では、九品官人法が導入された主な理由は、まさに郷挙里選とその弊害を終わらせることだったということになる<ref name="九品官人法の制定について"></ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=三國志/卷11#袁渙|title=『三国志』「袁渙伝」|wslanguage=zh|show-language=yes|quote=時有傳劉備死者、羣臣皆賀。渙以甞為備舉吏、獨不賀。 |
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いずれにせよ、孝廉や秀才など郷挙里選の各科目は九品官人法に吸収される形で存続し、そのための試験も行われた。しかし、これらの科目による登用は、九品で定められた家格と試験結果の不適合を避けるため試験の形骸化が進んだことや、中央の高官が保身のために地方の出身者を阻んだことなどを理由に衰退し、郷挙里選の科目が求賢としての役割を果たすことはなくなった<ref name="九品官人法の研究"></ref>。 |
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郷挙里選の豪族・権力者の子弟が優遇される状態を改める、などの理由から、[[220年]]に[[魏 (三国)|魏]]の[[曹丕]]は[[陳羣]]の建言により[[九品官人法]]を施行し、郷挙里選は廃れていった。 |
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==出典== |
==出典== |
2021年3月7日 (日) 16:02時点における版
郷挙里選(きょうきょりせん)は、中国で漢代に行われていた官吏の登用制度のひとつである。地方の高官や有力者が、秀才や孝廉などの科目別に、その地域の優秀な人物を中央に推薦した。
概要
正史での用例
「郷挙里選」は歴史用語であり、中国の正史でも使われている。『後漢書』によると、後漢の章帝は、次のように言及した。
又、選挙は実に乖き、俗吏は人を傷つけ、官職は耗乱し、刑罰は中らざるを、憂わざるべきか。昔、仲弓は季氏の家臣なりて、子遊〔ママ〕は武城の小宰なるに、孔子は猶お賢才をもって誨え、得人をもって問えり。明政に大小なく、得人をもって本と為す。[概要の引用文の注 1]
夫れ、郷挙里選、必ず功労は累ぬ。今、刺史と守相は真偽を明らかにせず、茂才と孝廉は歳に百をもって数え、既にして能の顕るにあらざるに、当にこれに政事を授くべきとは、甚だ謂れなし。[概要の引用文の注 2]
後世では漢代の登用制度を指す言葉として使われ、例えば、『晋書』によると、西晋の衛瓘と劉毅 (西晋)が、当時の登用制度・九品官人法を廃止して漢の登用制度への復活を司馬炎に提案したときに、後者を「郷挙裏選」または「郷議裏選」と呼んだ[2][3]。ただし、この提案は実現しなかった。また、『新唐書』によると、唐の李棲筠、李広、賈至、厳武らも同様に「郷挙裏選」を復活させる提案を行い、こちらは一部が受け入れられた[4]。
理念としての郷挙里選
漢代の地方制度は、大きい順に、州(後漢のみ)、郡、県、郷、里となっており、「郷挙里選」を文字通り解釈すれば、漢代の「郷」と「里」が推薦する制度ということになる。
明の邱濬は『大学衍義補』において、『周礼』と『礼記』の一節を引用して、周代の登用制度は郷挙里選であると述べた[5]。これをふまえて、清の『古今図書集成』の「郷挙里選部彙考」やそれに続く近現代の書籍も、郷挙里選の説明を周代から始めている[6]。これに先立つ唐の『通典』の「選挙典」や元の『文献通考』の「選挙考」は、周代の登用制度を郷挙里選とは呼んでいないものの、中国の登用制度の歴史をまとめた文章で、最初にやはり『周礼』と『礼記』のほぼ同じ個所を引用している[7][8]。以下がその引用部分である。
大司徒の職は、(中略)郷三物をもって万民に教え、これを賓興す。一に曰く六徳、知仁聖義忠和。二に曰く六行、孝友睦姻任恤。三に曰く六芸、礼楽射御書数。[概要の引用文の注 3]
(中略)
郷大夫の職は、(中略)三年に則ち大比あり、その徳行、道芸を考り、賢者、能者を興す。郷老及び郷大夫はその吏とその衆寡を帥い、礼をもってこれを礼賓す。厥明、郷老及び郷大夫、群吏は、賢能の書を王に献じ、王は再拝してこれを受け、天府に登し、内史はこれに弐す。[概要の引用文の注 4]
郷に命じて秀士を論ぜしめこれを司徒に升ぐ、曰く選士。司徒は選士の秀者を論じてこれを学に升ぐ、曰く俊士。司徒に升げられた者は郷に征せず、学に升げられた者は司徒に征せず、曰く造士。[概要の引用文の注 5]
(中略)
大楽正は造士の秀者を論じ、王に告ぐをもってこれを司馬に升ぐ、曰く進士。司馬は官材を弁論し、進士の賢者を論じて、王に告ぐをもってその論を定む。論の定まりてしかる後にこれを官す。任官してしかる後にこれを爵す。位の定まりてしかる後にこれを禄す。[概要の引用文の注 6]
後漢の鄭玄によると、『周礼』で大司徒や郷大夫が行う「興」は漢代の「挙」で登用の意味であり、鄭衆によると、徳行を備える賢者と道芸を備える能者の選出は、それぞれが漢代の孝廉と秀才に相当する。また、『礼記』の造士は、後述する漢代の博士弟子員にあたると言える[11]。『周礼』には偽書の疑いもあり、このような制度が本当に実施されていたかはともかくとして、これらは漢代を含む後世の登用制度のお手本となった。
なお、同じく『周礼』の「地官司徒」によると、当時の地方制度は、大きい順に郷、州、党、族、閭(里)、比(隣)、家である。郷は、都市国家とはいえ、王の領地の6分の1で12,500家に相当する最大の区分であり、漢代の郷とは異なる。
選挙、察挙と秀才・孝廉
以上のような背景から、「郷挙里選」の意味するところには儒家にとっての理想を体現した制度という側面があり、状況によっては、その指す内容と実際に漢で行われていた登用制度にはいささかの乖離がある[12]。
一方で、選挙は、漢代の歴史を記した『史記』、『漢書』および『後漢書』のいずれにおいても官吏の登用そのものを指す言葉で、古くは周代から、以降の歴史では九品官人法や科挙も含めて広く使われる言葉である[11]。また、察挙は、歴史書の人物伝で使われる動詞「察」に由来し、登用が(上位者からの)推薦によるものであったことを明確に示す言葉である[13]。そもそも、前漢では「郷挙里選」の用例がなく、後漢でも当時は特定の制度を指す名称ではなかった。そこで、文脈によっては、この秀才・孝廉などの科目での登用制度を指すときに、あえて「郷挙里選」の名を避けて「漢代の選挙」や「漢代の察挙」と表現される。
逆に言うと、察挙は推薦による登用全てを指すので、地方からの推薦だけではなく三公九卿や大将軍のような中央の高官からの推薦も含んでいる。したがって、地方からという点を重視すると、州・郡の長官が推薦する秀才(茂才)・孝廉による登用が最狭義の郷挙里選であり、冒頭に引用した章帝の発言もこの意味で使われている[13]。
これまでみてきたように、後世にも、西晋や唐のようにたびたび郷挙里選の復活を望む声があったかたわらで、同じ西晋でも、例えば道家の葛洪は、郷挙里選を秀孝という略語で呼んで有能な人物が得られないと批判し、後漢末期当時の世評として以下の文を紹介した。
秀才に挙げられるも書を知らず、孝廉に察せられるも父と別居す。寒素、清白の濁れること泥のごとく、高第、良将の怯えること鶏のごとし。[概要の引用文の注 7]
とりもなおさず、冒頭の章帝の発言も、茂才・孝廉での登用の結果に批判的な内容である。
この節の引用文への注
- ^ 仲弓と子游は孔子の弟子で、ふたりがそれぞれ官職についたあと、孔子は彼らに人材発掘の重要性を説いた。「賢才」と「得人(人を得る)」はいずれも優秀な人材の登用に関することで、これらの逸話と用語は『論語』の「仲弓爲季氏宰」と「子游爲武城宰」にある。
- ^ 「功労」については後述するように年功序列の評価のこと。後漢の「刺史」は州の長官で、「守相」は郡の長官である太守と諸侯相(形式的には次官)を指す。「茂才」と「孝廉」は郷挙里選の科目で後述するが、茂才科の推挙者こそが刺史で孝廉科の推挙者が太守と諸侯相なので、「刺史」・「守相」と「茂才」・「孝廉」は州・郡で二重の対句となっている。
- ^ 「郷三物」は次の文に書いてある六徳、六行、六芸の3つのこと。
- ^ 「郷大夫」は郷の長官のこと。「大比」は3年ごとの大規模な戸籍調査のこと。直前の中略した部分に、司徒から指導を受けて郷大夫が万民にほどこす教育と、成人した納税者と免税対象の調査の話があり、これらは毎年行われていた。「厥明」は翌日のこと。「天府」は、鄭玄によれば、宝物庫のこと。
- ^ 「征」は納税のこと。「学」は教育機関のこと。辟雍を参照。
- ^ 「大楽正」は「学」の長官のこと。
- ^ 「秀才」、「孝廉」、「清白」、「高第」はいずれも漢代の郷挙里選の科目で、後述する。「寒素」と「良将」は九品官人法の科目なので、ここでは触れないが、寒素科の成立の記述は『晋書』「武帝紀」にあり、良将科の成立の記述は『三国志』「明帝紀」にあって、それぞれ西晋と魏で始まった。寒素科による被推挙例に紀瞻と霍原があり、良将科での例には劉聡がある。
漢代の登用制度
官僚制度の概略
漢代の官職は秩石によって階級が分かれており、例えば前漢では、九卿や大きな郡の太守なら中二千石、普通の郡の太守や都尉なら二千石、10,000戸を超す大県の長官である県令なら、その大きさに応じて六百石から千石、それに満たない小県の長官・県長は三百石から五百石、県の佐官である県丞・県尉は二百石から四百石、県の属吏である卒史・属・書佐などであれば百石・斗食・佐史、というように格付けされていた。ただし、大県と小県の実態的区分は人口ではなく面積だったという説もある[15]。
この秩石の序列とは別に、漢代の官吏には大きく分けて2つの区分があった。ひとつが皇帝によって任命された勅任官(長吏)で、もうひとつがそうではない非勅任官(少吏)、つまり、主に(州・)郡・県などの地方政府(の高官)によって採用された属吏である。この両者の間には出世のルートや待遇の面で厚い壁があった。また、この地方政府の高官、すなわち長官や佐官とされた州の刺史や県の尉など、は勅任官であったが、彼らは本籍地として登録されている本貫地に派遣されることはない、という厳格なルールがあり、逆に、非勅任官は基本的に本貫地で現地採用された[13]。
これらの官職は秩石の大小を問わず、4年を目安とした満期が設定されており、その満期が来れば官吏に「功」が一つ追加され、満期に達しない年数は「労」としてカウントされた。例えば、ある官職を6年務めた場合は「功一労二歳」というように評価された。これを功労という。功はもともと戦争で首級を上げるなどの戦功を評価する制度で、大きな戦争がなくなった後も、盗賊の捕縛で功が追加されたり、公的な弓術大会で好成績を収めれば労に最大3ヶ月追加されたり、逆に不始末があれば「奪労」として労を減らされたりした。こうした功の累積による昇進を功次といい、それに伴う異動を遷転という[16][17][18][19]。
光禄勲(前漢初期は郎中令)の属官には郎官と呼ばれる4つの官職、すなわち、比六百石の議郎、同じく比六百石の中郎、比四百石の侍郎、比三百石の郎中、があった。郎官の本来の役割は禁衛として皇宮の警護をしたり皇帝の行幸に付き添うことだったが、それ以外には他にこれといった任務もなければ定員もなく、むしろ人事制度において特に重要な役割を果たした。というのも、次に重要な官職へと栄転するために待機しておくための職という意味会いが強くなったからである。このため、郎官として登用されることを特に郎選という[19][20]。
地方の属吏ら百石以下の非勅任官が功次によって二百石以上の勅任官になるのは特に困難であり、最低でも比三百石の勅任官である郎中としてキャリアが開けるのは、それだけ有利だった[19]。前漢の前期においては、郎選からエリートコースを歩んだ官吏は、一度も県や道の官職を経ることなく三公九卿となることができたのに対し、非勅任官である地方の属吏を出発点とした官吏は、功次によって六百石以上の地方の高官に出世することはできたが、それより上にはなれなかった。前漢後期になると、エリート官吏が県・道の長官や佐官を経る出世コースができたのに対して、非エリート官吏は四百石程度が限界となり、後漢後期ではそれすらも到達できなくなった[21]。
郷挙里選によらない登用
任子・富貲・良家子など
結論から先に言うと、漢代に郎選の中核を担ったのは郷挙里選の孝廉である。しかし、そこに至るまでには様々な登用制度があった。南宋の王応麟の『玉海』によると、漢代を通じて行われた郎選は、任子、富貲、献策、孝著の4種類あり[22]、これらの他にも実技を要求される良家子と射策の2つがある[23][19]。孝著は孝廉と同じ背景を持つのでこの節では詳細に扱わないが、王応麟が例として挙げた馮唐は孝廉が始まる前の人物で、厳密に言えばこれは孝廉でないので区別する。射策は博士弟子員と対になる制度なので、郷挙里選の一種として次の節で扱う。
- 任子
- 二千石以上の高官がその任期を3年以上務めた場合、子か弟、つまり後継者を1人選んで郎官にすることができた。
- 若年で就任するためか、郎官以外にも蕭育の太子庶子、馮野王の太子中庶子、汲黯の太子洗馬など、年齢の近い皇太子に関する役職に就く例があった。また、「1人」というルールは守られず、馮奉世は3人の子を、史丹は9人の子を任子とした[19]。漢代の人物伝で全く説明がなくいきなり「少くして郎となる」などとなっている場合は、前後関係からほぼ任子で説明できるケースが多く、あるいは外戚や宗室などの記述が稀な身分による登用が省略された形と考えられる[19]。
- 献策
- 皇帝に政策を提案して認められた者を郎官にした。
- 良家子
- 良家に指定されていた家から従軍させ、武術に優れた者を選んで郎官にした[23][19]。漢陽郡、隴西郡、安定郡、北地郡、上郡、西河郡の6郡の良家を特に六郡良家と言う。
- 女子も良家子として女官に登用された。
- この6郡は匈奴や羌などと国境を接した尚武の土地柄で、文帝は六郡良家から才能のある者を集めて上林苑で軍事演習を行った[35]。武帝が期門と羽林を設立すると、六郡良家子が「善騎射」・「能騎射」を枕詞に人員を供給した[36][37]。
- 期門・羽林の人員は後に改称されて比三百石の虎賁郎・羽林郎となった。しかし、比三百石の勅任官でも郎官との扱いに格差があり、例えば、比六百石の羽林左監・右監は郎官から選ばれ、原則的に羽林郎からは羽林監の下の書記までしか上がれなかった[39]。その例外として、戦功によって羽林郎から秩石が同じ郎中へ昇進する場合がある。
辟召と徴召
これらに加えて、後漢では辟召と徴召の2つが有力な登用制度となった。もっとも、これらの制度自体は前漢の最初期から存在していた[19][41][42]。
- 辟召
- 辟召は、高官の自由裁量による非勅任官の登用を意味する。したがって、地方の属吏らの登用も広義の辟召にあたり、前述のように、一般的には出世に不利な登用である。この広義の辟召の場合、史書で使われる字には「辟」以外に「除」、「請」、「補」、「署」などがあり、辟除や請署とも言う。属吏の肩書には官吏全体の序列である秩石に基づく卒史、属、令史、嗇夫などとは別に、職場内のみでの役割と上下関係を表す戸曹掾や決曹史など、いわゆる掾史の両方があって、秩石の序列には「除」や「補」で就任し、掾史には「署」として割り振られた[42][43]。
- 一方で、出世に有利な辟召も存在した。それは、丞相府、大将軍府など、最高級の高官が開いた公府(莫府)、または州府へ属吏として登用されることである。史書では「辟」の字はもっぱらこれらへの登用のみで使われるため、狭義に辟召といえばこちらを指す。非勅任官のため本籍地回避などのルールに縛られず、登用者の決定のみに基づいて採用され、大多数が百石にも届かなかった地方の属吏とは違って、例えば、大尉府の掾は比四百石と比三百石で、二百石の壁を越えていわば登用制度の抜け穴として機能して、その後の出世の糸口となった[41][42][43]。
- 徴召
- 徴召は、皇帝の推薦による登用を意味する。皇帝の関与は形式的なもので、実際には三公や大将軍の助言の下に行われた。したがって、構造としては辟召と同じだが、後漢の徴召は郎選の一種でもあって、被推薦者は郎官の最も上の位である議郎として登用され、改めて別の高官へと栄転した[41]。
郷挙里選の科目
各科目の例
『後漢書』の著者である范曄は南北朝時代の人物で、登用された官吏を貢士と呼んでいる。彼が書いた『後漢書』内の解説である「史論」によると、「貢士の方」は前漢に賢良・方正と孝廉・秀才があり、後漢に敦朴、有道、賢能、直言、独行、高節、質直、清白、敦厚が追加された。これらが郷挙里選の科目である[45][46]。また、元代の『文献通考』は、「挙士の目」を大別すると、賢良・方正、孝廉、博士弟子の3つであると述べており、博士弟子員の制度も含めている[11][47]。他にも、漢代の察挙科目に該当するものは、明経や高第などがある。以下にこれらの科目の概略を説明する。
- 賢良・方正
- 前漢で推薦された者は、六百石以上の県令となったほか、博士や中大夫・諫大夫など、皇帝の諮問に答える役職についた。後漢で推薦された者は、ほぼ議郎となって、やはり皇帝の側近として助言する役職になった[19]。募集があったのは主に地震などの天変地異、すなわち災異があった時で、皇帝は自らの不徳を認め、それを世間の意見を聞き入れ補うという名目で登用が実施された。歴史書の表現では「賢良方正」と両方が書かれている場合、「賢良」と「方正」で分かれている場合、「賢良文学」のように片方に他の科目が付いてる場合などがある。
- これらの例のように、賢良・方正に推薦された人は、皇帝の試問という形式の試験に解答を行った。これを対策と言い、この科目は、対策の内容が認められて抜擢される、という手続きを踏む。ところが、例外的に、高官に疎まれた結果、対策の評価を落とされて六百石に届かない場合もある[52]。
- 孝廉
- 通例としては、在野の者や百石以下の属吏が、郡の太守または国の諸侯相によって推薦され、比三百石の郎中になった後に、四百石前後の県の長官や佐官となった。孝廉は孝悌廉潔の略語であり、前半の孝悌は儒教の徳目である。後漢では対象者を40歳以上とする規定が生まれ、漢代の登用で唯一の年齢制限が課された。これは両親のいずれかの死とその喪に服す経験を前提としたためと考えられる。また、対象者への試験の導入も検討された。孝廉はエピソードさえあれば資格を満たすので、極論すれば文盲を文官として登用することも可能になり、これを防ぐためと考えられる。
- 孝廉の亜種には廉吏があり、廉吏として推挙されることを察廉または挙廉と言う。これは、既に登用されていた官吏が対象となって、選ばれた者は昇進し、同じ人物が複数回選ばれることもあった[19]。後に対象者を六百石未満とする制限ができた[45][56]。
- 秀才(茂才)
- 秀才は後漢になると光武帝(劉秀)の避諱により茂才に変更された。後漢の茂才は三公、光禄勲、各州の刺史の最大計17人が毎年1人ずつ推薦し、通例としては、推薦された者は六百石以上の県令となった[57][58]。
- 博士弟子員と射策
- 高第
- 上第や第一とも言い、字義としては、何らかの試験結果が優秀であったことを意味する。後漢の中期以降では、高官が自らの公府に辟召した人材を勅任官にする手段となった。したがって、対象者は公府の属吏であり、侍御史を経由して刺史になる経歴が典型となった。
制科と常科
科目と技能
「明経」や「孝廉」といった表現は朝廷が募集する登用の科目であると同時に、推薦者や世間の人から見た人物の技能や資質の評価でもあって、登用とは無関係に明経や孝廉に該当する人物が存在しうる。歴史書に「孝廉に挙げられ」や「明経に挙げられ」と書かれていた場合は当人がその科目で登用されたことが明らかであるが、「明経をもって郎となる」と書かれていた場合は、明経科で登用されたのか、明経と認められた人物が別の経路(極論すれば任子など)で登用されたのか判別できない。というのも、明経として推薦されて明経科では郎官になれず、博士弟子員となったケースもあるからである。
こういった、同名のややこしい評価は別としても、例えば孝廉の申請書類には文無害などの技能・異才に関する評価を書く欄があり、それらに加えて現職での功労も添えられおり、これらは推薦者からの評価として同列に扱われていた。
推薦者と被推薦者
推薦者の権利と義務
郷里と豪族
推薦に当たっては郡守と相、そして郷里の有力者の合議によって選ばれる。そのため、これらの人物との繋がりこそが推薦されるために必要となる。その主な出身母体となったのが、文景の治の頃から経済力を積み上げてきた豪族と呼ばれる存在である。豪族自身が地方の有力者であり、更にそこから選ばれた郡守や相も豪族出身であることが多いため、この制度の下での人材任用は豪族の影響力が強くなった。
後漢では豪族の勢力は更に強まり、官に推薦されるか否かは豪族たちの間での評判が全てとなる。後漢では人材評論が流行ったが、これも推薦を受けるためには郷里での評判が必要であったからである。この評判のことを郷論と呼ぶ。この評判を勝ち取るために、後漢の人士の中では少々大げさに自らの行動を飾り立てることがあったようである。
変遷と影響
前漢
前漢の最初期にその政権を担当していたのは、劉邦に付き従って楚漢戦争に功績を挙げた元勲たちであり、彼らは、父祖が韓の相国だった張良を除いて、全て下層階級の出身である。こういった集団が国を興すのは当時としては珍しかったが、自らもその一員だった劉邦はその有用性をよく理解しており、元の身分にこだわらず天下に広く人材を集める方針を採った。紀元前196年に出された、いわゆる「求賢令」がそれである[23][61]。
紀元前178年に文帝は賢良方正にして直言極諫の士の推挙を求める勅令を出した。その後も言論の自由を保障するなど細かく変えながら同様の勅令が何度も出されたが、いずれもうまくいかず、紀元前168年には登用方法が確立されていないことを認める発言をしている。しかし、試行錯誤の末、紀元前165年の勅令で晁錯を登用し、賢良と対策が本格的に始まることとなった。次の景帝の時代では、劉邦に登用された人物は既にほとんど死んでおり、元勲たちの子孫の世代が丞相を歴任するようになったが、これらの人々は『史記』に「善良だが無能」と書かれている[23][62]。
武帝は紀元前141年に即位したときに、賢良で100人以上を登用し、その中にいた董仲舒の対策にあった提案を取り入れ、紀元前134年に孝廉による登用が始まった。また、同じく武帝が賢良で登用した公孫弘の提案により、紀元前124年に博士弟子員の制度が始まった。このように郷挙里選の中核的な制度が武帝の時代に整備された理由は、登用する人材の質の向上を図る狙いと、中央集権体制の確立を図る狙いの2つの説で説明される。
董仲舒は、彼の対策の中で、任子・富貲による登用と、彼らが功労により昇進して次の権力者を生むのに十分な地位・財産を得ることは、人材の質の面で問題視していた。その後の事例を見ても、功次で昇進してきた人材に比べると、郷挙里選で抜擢された人材の方が確かに優秀で扱いにも差がある。成帝の時代には、孝者と功次で県令に昇進した人物がその県の盗賊に対応できなかったのに対して、察廉と秀才で県令になった人物と任地を交換すれば上手く治まったエピソードがある。同じく成帝の時期に、博士は優秀な者なら尚書や刺史となり、政事に疎い最下等の人物は功次によって諸侯の太傅へと転出する、とされており、功次は一段低く見られていた[16][63]。
ただし、太常の属官として人材登用に関わっていた司馬遷は、紀元前93年の「報任少卿書」において、出世の4条件として、奇策・実績・戦功と併記する形で功労を挙げており、武帝の晩年にあっても功次は健在であった。さらに、下火になっていったのはあくまで功次のみを理由とする昇進の話であり、特に孝廉などの常科で功労は評価基準として組み込まれていった。そして、任子・富貲に言及した董仲舒本人も、任子・富貲の改革そのものには手を付けず、これらによる登用はむしろ武帝期にも盛んに行われ、特に任子は以降も漢代を通じて有力な郎選であり続けた。やや時代は下って宣帝の時代に、王吉は任子の廃止を提案したが、宣帝はこれを退けている。実際に実力を示した勢力が政権の中枢に参画し続けることは、反乱が多発した当時にあって、国家運営の安定に寄与していたと考えられる[23][64][65]。
他方で、そもそも、春秋戦国時代のころより、世間に広く賢人を求め、大量の食客を抱え士大夫として取り立てるのは、封建社会では諸侯の嗜みとして奨励される行為だった。前漢の初めは郡国制で名実ともに諸侯が実在した時期であり、彼らはもちろんのこと、まだ領地に封じられていない高官たちもその常識に倣っていた。実際に、衛青は軍部のトップに登り詰めながら、抱える人材の登用に熱心ではなかった点で世間の評判を落としており、そのことを部下の蘇建に責められると、「竇嬰と田蚡が大勢の食客を抱えていることを武帝は不快に思っていたので自分は遠慮する」と答え、霍去病もその方針を踏襲した。つまり、こういった春秋戦国時代の気風を放置すれば、賢人たちによって力をつけた諸侯が割拠する時代へと逆行するおそれがあったので、諸侯らの下に賢人が帰属することは武帝の目には越権行為として映っていた。求賢を皇帝の専権事項にし、賢人たちを勅任官として皇帝に直属させる改革が必要とされたのである[45][66]。
後漢
後漢になると、光武帝は王莽のような簒奪者を二度と出さないために儒教を重視する政策を取り、選挙の科目の中でも特に孝廉を重視した。
三国時代以降
後漢の最後期、最高権力者が曹丕となって魏王朝の樹立が現実的となり、220年に陳羣の提案により九品官人法が始まって、郷挙里選は廃止された。郷挙里選と九品官人法の関係については以下の2つの見解がある。
人事制度の観点からは、漢魏の易姓革命は、魏王・曹丕の陪臣が、そのまま全て皇帝・曹丕の勅任官になることを意味する。例えば、九品官人法を制定した時点で、陳羣自身は魏王国の尚書であり、革命によって魏王朝の尚書となった。ここで問題になるのは、逆に、漢で勅任官だった官吏は魏では失職することであり、郷挙里選では推薦する側の立場だった高官らもここに含まれる。しかし、革命の前後で官吏を量的に維持するためには、旧体制下で勅任官だった人材を新体制でも改めて勅任官とする必要があった。この時に旧体制下で勅任官だった人材の審査を担当したのが中正官であり、彼らは中正官の算定した九品に応じた官職に割り振られた。言い換えれば、九品官人法は革命に必要だったから制定された仮初めの制度で、過渡期が終われば不要である。前述のように、実際にこういった考えから、西晋の衛瓘と劉毅は九品官人法の廃止と郷挙里選の復活を訴えた[67][68]。
あるいはこうも考えられる。曹丕の父、曹操は郷挙里選による推薦者と被推薦者の人的結合という弊害を巧みに利用し、丞相・魏王となって自らの府を開くまでになった。つまり、丞相府や魏王の政府へ辟召した属官と漢王朝の勅任官を茂才や高第で入れ替えることによって、推薦者としての立場を活用して勢力を拡大したのである。ところが、革命を目前とした曹丕らにとって、もはや勅任官を作り出すことに意味はなく、郷挙里選による人的結合の弊害はそのまま弊害として受け取られることになった。なんといっても、この人的結合が皇帝を超える権力を生んで革命を起こしうることを、曹操が証明してしまったからである。魏王朝内でも皇帝以外との人的結合が露呈するケースがあり、例えば、魏では223年の劉備の死亡を祝ったが、袁渙はひとりだけ祝賀に加わらなかった。なぜなら、25年前に袁渙を茂才で推薦したのは、豫州の刺史だったころの劉備だったからである。他方で、魏王国の時点で新王朝に必要な人材は揃っていたという見方もあり、そうであるならば、革命に不満を持つ人材があったとしても、あえて審査して漢王朝への忠誠心を刺激し反感を買う必要はなかったはずである。結局のところ、この説では、九品官人法が導入された主な理由は、まさに郷挙里選とその弊害を終わらせることだったということになる[68][69]。
いずれにせよ、孝廉や秀才など郷挙里選の各科目は九品官人法に吸収される形で存続し、そのための試験も行われた。しかし、これらの科目による登用は、九品で定められた家格と試験結果の不適合を避けるため試験の形骸化が進んだことや、中央の高官が保身のために地方の出身者を阻んだことなどを理由に衰退し、郷挙里選の科目が求賢としての役割を果たすことはなくなった[67]。
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