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幕臣の子弟より留学希望者を募り、[[開成所]]で行った試験の結果12名が合格し、加えて[[川路寛堂|川路太郎]]と[[中村正直]]の2名が取締に任ぜられ計14名が派遣された<ref>[[宮永孝]]、{{PDFlink|[http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/1768/1/36-3miyanaga.pdf 幕府イギリス留学生(上)]}}、1989年</ref>。[[1866年]](慶応2年)10月に[[横浜港]]を出発し、12月に[[ロンドン]]に到着した。留学生の引率・監督・世話役を担ったイギリス海軍付の牧師兼海軍教師[[W・V・ロイド]]の意向と学生らの希望する学習体制が一致せずしばしば対立した。雇い入れた教師にも恵まれず、ようやく[[1867年]](慶応3年)の末に学生12名はユニヴァーシティ・カレッジに入学するも、幕府の瓦解により短期間で帰国([[1868年]](明治元年)8月)を余儀なくされた。また川路らは、1867年の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]に将軍[[徳川慶喜|慶喜]]の名代として派遣された[[徳川昭武]]らの対応にあたったほか、万博後の一行の訪英<!--と[[ヴィクトリア女王]]への謁見-->の対応にもあたった<ref>宮永孝、「[https://doi.org/10.15002/00006810 幕府イギリス留学生(下)]」『社会労働研究』 1990年 36巻 4号 p.43-110, 法政大学社会学部学会, {{naid|110000184449}}, { |
幕臣の子弟より留学希望者を募り、[[開成所]]で行った試験の結果12名が合格し、加えて[[川路寛堂|川路太郎]]と[[中村正直]]の2名が取締に任ぜられ計14名が派遣された<ref>[[宮永孝]]、{{PDFlink|[http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/1768/1/36-3miyanaga.pdf 幕府イギリス留学生(上)]}}、1989年</ref>。[[1866年]](慶応2年)10月に[[横浜港]]を出発し、12月に[[ロンドン]]に到着した。留学生の引率・監督・世話役を担ったイギリス海軍付の牧師兼海軍教師[[W・V・ロイド]]の意向と学生らの希望する学習体制が一致せずしばしば対立した。雇い入れた教師にも恵まれず、ようやく[[1867年]](慶応3年)の末に学生12名はユニヴァーシティ・カレッジに入学するも、幕府の瓦解により短期間で帰国([[1868年]](明治元年)8月)を余儀なくされた。また川路らは、1867年の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]に将軍[[徳川慶喜|慶喜]]の名代として派遣された[[徳川昭武]]らの対応にあたったほか、万博後の一行の訪英<!--と[[ヴィクトリア女王]]への謁見-->の対応にもあたった<ref>宮永孝、「[https://doi.org/10.15002/00006810 幕府イギリス留学生(下)]」『社会労働研究』 1990年 36巻 4号 p.43-110, 法政大学社会学部学会, {{naid|110000184449}}, {{doi|10.15002/00006810}}</ref>。 |
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2020年7月25日 (土) 20:07時点における版
イギリスの日本人学生(いぎりすのにほんじんがくせい)とは、19世紀に長州藩や薩摩藩、江戸幕府によって主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに派遣された、日本人留学生のことを指す。明治維新以降は、主にケンブリッジ大学やオックスフォード大学において学ぶのが主流となり、同時代の末期まで続いた。留学生を送る理由としては、いち早く日本を近代化し、列強に肩を並べることにあった。
1980年代以降は、飛行機の利用が安価なものになったこともあって、一般市民の間でも非常にポピュラーなものとなった。
主な留学生
1863年(文久3年)に派遣され、ユニヴァーシティ・カレッジのアレキサンダー・ウィリアムソン教授の監督のもと学んだ。
薩摩学生
1865年(慶応元年)に15名の薩摩学生のほか、土佐藩と肥前藩から1名ずつ派遣された。彼らも長州五傑と同様、ユニヴァーシティ・カレッジで学んだ。
など。
幕府学生
幕臣の子弟より留学希望者を募り、開成所で行った試験の結果12名が合格し、加えて川路太郎と中村正直の2名が取締に任ぜられ計14名が派遣された[2]。1866年(慶応2年)10月に横浜港を出発し、12月にロンドンに到着した。留学生の引率・監督・世話役を担ったイギリス海軍付の牧師兼海軍教師W・V・ロイドの意向と学生らの希望する学習体制が一致せずしばしば対立した。雇い入れた教師にも恵まれず、ようやく1867年(慶応3年)の末に学生12名はユニヴァーシティ・カレッジに入学するも、幕府の瓦解により短期間で帰国(1868年(明治元年)8月)を余儀なくされた。また川路らは、1867年のパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代として派遣された徳川昭武らの対応にあたったほか、万博後の一行の訪英の対応にもあたった[3]。
- 取締(2名)
- 川路太郎
- 中村正直
- 学生(12名)
など。
明治・大正時代
ケンブリッジ大学
オックスフォード大学
その他
第二次世界大戦以降
脚注・参考文献
- ^ 入学年齢に達していなかった為、スコットランドのアバディーン・グラマー・スクールで学んだ。
- ^ 宮永孝、幕府イギリス留学生(上) (PDF) 、1989年
- ^ 宮永孝、「幕府イギリス留学生(下)」『社会労働研究』 1990年 36巻 4号 p.43-110, 法政大学社会学部学会, NAID 110000184449, doi:10.15002/00006810